バケペン、と呼ばれるカメラがあります。「バケモノみたいにデカいペンタックス」の略だろうと思われ、昔からあるペンタックス6×7という中判の一眼レフカメラです。
一眼レフというのはレンズから入ってきた光を斜め45度に配置したミラーでカメラ上部のファインダーに導き、撮影時にはミラーが跳ね上がってミラーの後ろにあるフィルム(デジタルカメラならセンサー)面に光を結像させて像を得る仕組みです。
6×7カメラはフィルムの1コマが一般的な35mmフィルムの4倍以上の面積なので、一眼レフのミラーも35mm一眼レフの4倍あります。バカでかいミラーがバコーンと跳ね上がって撮影が行われるので、非常にやかましい。
やかましいけれども、実際にこれまた4倍あるファインダースクリーン、明るいレンズをつけて覗くバケペンのファインダー像は、うっとりするくらいに美しいのです。
バケペンを触ったことがないという若いカメラマンに覗かせてみたところ、彼は「うわぁ! 映画みたいだ!」と感動していました。
中判カメラの大きなファインダー像で覗く世界は、その被写界深度(ピントの奥行き)の薄さもあってなんだか儚げに見えます。
中判一眼レフ(二眼でもいいけど)を持って電車に乗り、撮影もせず、電車の窓からファインダー越しの風景をひたすら眺める、なんてこともやってみると楽しいです。暗く仕切られた中にぽっかり浮かぶ大きなファインダー像はなるほど少しだけ現実感を削がれて、たしかに映画のようです。
普通の35mmサイズ(24mm×36mmのフィルムもしくはセンサーサイズを、昔の映画フィルムの規格の名残で「35mm」と呼びます)の一眼レフでは小さいだけにファインダー像だけで美しい、とまではいえなくて、ピント位置と構図がわかれば良い、というくらいの役割しかファインダー像には与えられていません。
それでも昔はプロ用の一眼レフのファインダーだと、合焦していないボケ部分からきりっと鋭角に立ち上がるピントの美しさにざわざわしたものですが、オートフォーカスが一般化するとあまりファインダーの見え方に技術を注ぐカメラもなくなってきました。人間が目を凝らして合わせなくてもモーターが合わせるようになったので、ファインダー・スクリーンにそこまでの精度を求めなくなったのです。最近の一眼レフのファインダーはただ明るいだけで、微細なピントの差異を見分けにくい。
昔の、一眼レフ登場以前に全盛をふるったレンジファインダーカメラ(ライカなど、三角測量原理の距離計が組み込まれたカメラ)では、まさにピント合わせとは「距離を測る」ものでした。その後、ピントの合っている部分とボケている部分を肉眼で確かめることができる一眼レフカメラの全盛となり、ファインダーの中でピントの深さも含めた画作りができるようになりました。しかしオートフォーカスの時代になると「測距」という言葉が使われるのをみてもわかるとおり、ピント合わせがまた元の「距離を測る」という意味に戻ってしまいました。
ですが一眼レフの本領は、本来、光の混沌の中からゆっくり立ち上がってくる「ピントの線で描く画」だと思うのです。
オートフォーカスどころか、今やフィルムからデジタルへ、写真の仕組みそのものが大きく変わっているのですが、実はデジタルカメラにも、数少ない例外としてソニーα900のような、ファインダーの性能に力を注いだカメラがあります。あのカメラならオートフォーカスではなく、自分の目でじっくりピントの山をたしかめて画を作っていくような撮影もできるでしょう。
こういうカメラが、他社からももっと出てきてくれないかなぁと願います。「形のない光の混沌からレンズが画を作っていく快感」を知らずに写真を撮るというのは、ちょっともったいない気がします。
いろいろ意見もありましょうが、写真は「距離を撮る」ものであると同時に、やはり「焦点が描く画」でもあり、光の束を束ねていく快感を、位相差検出方式オートフォーカスだけに丸投げするのはつまらないと思うのです。