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3F/長期滞在者&more

自由・不自由

長期滞在者

最近自転車の話が多くて興味のない方には鼻白むところだろうが、また申し訳なくも自転車の話からはじめる。
自転車乗りが自転車に乗り出すきっかけというのは幾多あろうけれども、僕は前にも書いた通り、車に乗るのが大嫌い、電車も乗りたくないし、歩ける範囲ならば歩くのが一番好きなわけだが、自転車というのは歩くより速い上に車や電車を使わずに遠くまで行けるのがいいのである。しかも想像以上に遠くにだ。
東京での展示で知り合った映画監督の平野勝之氏が「僕は東京都内ならどこでも自転車です」と言ってたのに目から鱗が大量に落ち剥がれ、そうか、自転車はどんな移動にも使ってよいのだと、それ以来大抵の移動には自転車を使っている。
毎日通勤に往復で20km乗っているし、よく行く大阪帝塚山のギャラリーまでなら往復40km、神戸元町の頭痛医に通うのに往復50km、某用で通う和泉市まで往復80km。このあたりまでの距離ならば乗ることに秒の躊躇もない。はじめはママチャリだったので20kmの通勤も楽ではなかったが、それなりの自転車に替えたらぐんぐんと楽に走れる距離が増え、いつのまにか100km程度なら普通に乗れるようになった。
もともと好きではない電車やバスなど、特に昨今のコロナ騒動でますます避けたいところなので、暴風雨でもない限り自転車を使う。多少の雨は気にしない。雨具は常に自転車に取り付けたフロントバッグに携帯していたが、最近は防寒もかねて、雨が降っていてもいなくても雨用の服を着ている。ワークマンの防水上下、これで1時間半くらいまでなら大雨の中でも走ることが出来る。降っていない日も風除けになるから普通に防寒具として具合がいい。自転車の大敵は風雨であると思っていたが、常日頃からこういうものを着ていたら風雨すら苦ではないのだ。凄いなワークマン。しかも安いし。この冬はたぶんずっとこれ着ているだろう。


本当は今回は自由・不自由とは何か、みたいな話を書くつもりだったのだが、いきなり脱線している。脱線ついでに書くならば、自転車についている前後の変速機、これをディレイラー (derailleur) というのだが、何だと思って調べたら「脱線機」(仏語)という意味らしく、たしかに動きを見ていたらチェーンを隣の歯数の違う歯車に脱線させることでギア比を切り替えている。自転車は脱線を内包しているのである。なるほど。
自転車の不自由ということを考えてみる。
調子がいい時の自転車というのは本当に気持ちの良いものだが、たとえば雨が降ればチェーンにオイルを注して錆を防ぐとか空気圧は適正に保つとか日常それなりの手入れが必要だ。気をつけてはいてもギアのかかり具合が悪くなったとか、微小だが漕ぐたびに異音がするだとか、「調子がいいとき」から幾分か落ちる状態になることがある。こういうときいちいち感じる違和感を「不自由」だと感じる。ギシガシのママチャリに乗っていたころなら知らずにすんだことだ。
あるとき車輪が回転するたびにチンチンと小さい音がするようになり、何が原因かわからなかった。正確に1回転に1回鳴っているように思えるから車輪かペダルだと思うのだが、足を停めても鳴るからペダルの問題ではない。別にうるさいわけではなく走行に支障もきたさないが、小さく鳴り続ける微小音というのはイライラが募るものである(真偽は知らず、狭い独房に人を閉じ込めて一定間隔の水滴の落下音を聞かせ続けたらその囚人は発狂すると聞いたこともある)。
自転車の師匠である平野監督にtwitterで相談してみたら「あー、タイヤのスポークの根元を締めるニップル、それがどこか緩んでるんですよ」と現物を見なくても文字の相談で一発で答えをもらい、調べたら確かにそうだった。おおお、さすがである。経験値が5000万倍ほども違う。

こういう小さな不具合のない状態、そういうときの自転車というのは本当に自由を感じる乗り物だ。どこまでもいける。byくるり。
しかしこういう「不具合がない」という状態というのは、未来永劫続くわけではない。チェーンもスプロケット(歯車)も伸びたり摩耗したりするし、気を抜いたらどこか錆びさせてしまうかもしれない。ブレーキや変速機のワイヤーも定期的な交換が必要だ。
ところでこの原稿を書いている1月半ば。今たまたま自転車は絶好調である。ストンストンとギアは切り替わるし、何の異音もブレーキの鳴きもなく、すいすいと走ってくれる。素晴らしい。
素晴らしい、と思いながら、武庫川の河川敷を走る僕は考えている。またコケでもして変速機が歪んだらどうしよう。どうせまたニップルが緩んでチンチン音が鳴りだすんだろう。などと、悪い状態のことを思いながら、何も悪くない自転車を漕ぐのである。戸川純『オーロラB』的な。
自由というのはなんと心もとないものであろうか。
とまぁ書きたかったのはそういう話なのであるが、前置きが長すぎて自分でも何を書いてるかわからなくなってきている。脱線を戻したい。カチカチ。今日は変速が上手くいかない。


ところで3カ月前にここに書いた、ダルメシアン氏を撮り漏らした鈍重なカメラの話。覚えておられるだろうか。読んでない? まじか。読んで。
実は年末、その鈍重君を、なんと失くしたのだ。カメラを失くす? 意味がわかんない? 僕も意味がわからなかった。
今絶好調の自転車がまだ何か絶好調じゃなかった年末、その不調の原因を調べるために夜、帰宅途中に道の端に自転車を停め、ギアやペダルをあれこれ回したりしながら異音の原因を探していた。とりあえず不調の原因であろう箇所を見つけ、帰ってゆっくり修理をしようと道端に置いたリュックを背負い直し、帰路についた。で、家に着いたらカメラがない!
そう、自転車を点検していた道端に、リュックと一緒にカメラを降ろし、帰るときリュックだけを背負ってきたのだ。カメラは路上に置き忘れた!
急いで戻ったがカメラはなかった。なんというドジ。なんというドジ。無能浅墓板付蒲鉾。
コロナ禍で収入が減り、買い直す余裕も本当はないのだけれど、無い袖を千切れるほどに振り回し、借金もしつつ、失くしたカメラの後継機種を買い直した。バカな失敗だが有効に利用せねばならない(軽く書いてはいるが、涙の決断であった)。
負け惜しみを言うわけではないが、そう、ダルメシアン事件のころから、買い直せるならば次の機種に買い替えたいと思っていたのだ。鈍重なのは我慢するとして、画質的に、自分の持ってる鈍重カメラと次の鈍重Sカメラ・・・褒めてるわけではないから機種名は伏せるつもりだったが、わずらわしいので機種名を晒そう。失くしたカメラがフジフイルムX100、後継機種が同X100S。書いてしまった。画質的に二代目のX100Sの方が絶対に良いのはわかっていたのだ。はじめにX100を買う時から迷っていたのだが、中古価格で2万円の差があり、泣く泣く初代で我慢していたという経緯がある。これは神様がX100Sを買え、ということでX100を天に召したのだ。そう思うことにしてこの大ドジに落とし前をつけたのである。

センサーがX-Transというローパスなしの種類に変わり、画素も1600万画素に増えた。ああ1600万画素。僕は1600万画素という画像サイズが前から好きなのだ。とり回しの良い使いやすい画像サイズ。まぁそんな偏執的なことは説明してもつまらないだろうからやめる。
で、以前より画質も向上し、先代から踏襲された操作系にもかなり慣れ、鈍重なのは相変わらずだが、そこは使い方の工夫で毎日の撮影にガシガシ使っている。癖のあるカメラだが、この癖が自分の意図とズレる部分に、面白い写真が撮れるかもしれないという期待がなくもない。素直に使いやすすぎるカメラというのは、こういう慮外の兆しというものを案外とキャッチしにくいものである。
数年前までメインで使っていたカメラで、今でも名機だと思うのだが、キヤノンEOS-kiss X7。これにパンケーキレンズと呼ばれる厚みの少ない24mmF2.8というレンズをつけて使っていた。EOS-kissというのはキヤノンの入門機のシリーズであり、ママが自分の子供を撮るためのカメラ、みたいな位置づけで売られてはいるが、実はなかなかどうして「やるな小僧!」なカメラなのである。極端な小ささは逆にプロっぽさを感じさせる。耐久性だけが心配だが、僕みたいな撮り方をする人が公称耐久シャッター数(3万回)の倍は撮って壊れなかったのだから、その面でもかなり優秀なカメラだと言ってよい。
今から思えばこのEOS-kiss X7というのは理想的なカメラだった。とにかく軽い上に、付けているパンケーキレンズが適度に骨太な写りで好ましい。レンズこみでジャスト500gという軽さであるから持ち歩きにまったくストレスがない。何ならカメラを携帯していることを忘れそうなくらいである。暗所でのAF性能にだけ難があったが、他には何の不都合もない素晴らしいカメラだった。
こんな優秀なカメラをなぜ手放したのか。たぶん思うに、あまりにストレスなく何でも撮れてしまったからだろう。かつてのライカを視線の延長のようなカメラ、などと人はいうが、現代のライカ的カメラの先鋒はこのEOS-kissなのではないかと思うほどに、瞬きするように写真が撮れる。しかし慣れてみれば贅沢なもので、瞬きするように撮れるカメラには、逆に写真の神が降りてくる暇がないのではないか、と疑ってしまったのだった。ある種の不自由さにしか憑依しない何かが在る。思い込みでもあり、真でもある。
なんだかんだ、結局操作に手間取ってダルメシアンを撮り逃がせば「クソカメラ!」と悪態をつき、何でもストレスなく撮れすぎても「神が降りない」などとホザくのである。写真を撮る人間なんて身勝手な生き物である。阿呆である。

在りし日のX7


ところで結局、話がまとまらないのである。何故か今日は饒舌に書きまくってはいるが、なんという散漫さ。申し訳ない。あとでレビュアーの藤田莉江に謝ろう。彼女はこの原稿の下書きを読み、何らかのコメントをせねばならない役目にある。哀れである。
毎回話をまとめなければ、というのも堅苦しい話ではあるけどね。って、言い訳にもなってないわ。


カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

いい加減明るい話題はないのかい、と、言う事すら飽きてきた日々ですが、皆様お元気でしょうか。
一月も下旬となりまして、なけなしだった年末年始のイベント感もさらに薄まり、非日常な日常が戻ってきましたね。
非日常と日常の境目が本当に溶けてしまったような感じです。

わたしはといえば、しばらく引きこもってDIY的なこととか大掃除とか製菓とかに精を出しているか、冬眠が如くぐうすか寝てばかりいるので、すっかり文章の打ち方も忘れてしまいました。しゃべり方もなんか忘れてそうだなあ、とか。そう思いながら喋るように書いてみている今回です。

一人が大好きなタイプなもので、そんなに人とのコミュニケーションを要しないタイプの人間だと自認しているのですが、だからこそ気の置けない友人らとの何でもない会話というのは、普段風が入らない納戸の中に風を通すようなはたらきがあって、「こういう時間大事だよなぁ」としみじみ思うことがあります。

今ってなかなか、「ちょっとカフェで喋ろうよ」なんていうお誘いがある意味1番むずかしいようなところもあって、する事もされる事もないのですが。何だか今回はそういう「カフェのおしゃべり」みたいな要素があって。
カフェで喋る事なんて、ちょっと自分にとってだけは大事な、世界レベルではだいたいどうでもいい事。
感情が制御できないほどに大きく揺さぶられるということはなくても、何だかちょっと言葉にしてやりたい小さな気持ちの供養みたいな、そんな事。
ちょっとした事実の報告。何かの時に見つけた相手の好きそうなものを見せたり。
そんなあれやこれやを、脱線しまくりながらおおらかに伝え合う。総合すると、その時の相手をボンヤリまるっと解釈するにいたれる時間を共に過ごすことなのかと。
帰った頃には喋った内容そのものよりも、相手の今の「感じ」が強く残ってるような会話にしか、含まれない情報みたいなのってあるじゃないですか。
あと、おーっ、とか、へぇ!とか、そういうただの感嘆詞を笑顔で言える相手って大事なんです。
会って、それをやって、ああ、この人って自分にとって大事、っていう理解を自分の中に繰り返し深めてゆく。
人間関係、お互いに働きかけあうことで深まるものもあるけれど、自覚の繰り返しで深化するものも大いにあるわけで。

文中でも「原稿上がりました」の連絡の時にも謝ってくださってたりしたけど、「わー、これ最近のカマウチさんだ〜・・・」と、何かをまるっと受け取った気持ちになって勝手に嬉しくなったりしました。

ワクチンが少しずつ出回り始め、かと思えばウイルスの変異株が見つかり、まだまだ先の読めない中で、励まし合い気持ちを支え合うような事に一番有効なような、そんなことが許されていない。

一人で嬉々黙々と手を動かしていて、それはそれでいいのだけど、友達に気兼ねなく会いたいねぇ、と、久々に柔らかい気持ちになりました。

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