入居者名・記事名・タグで
検索できます。

3F/長期滞在者&more

灰色飛行物体

長期滞在者


仕事帰りに夜の武庫川サイクルロードを走行中、僕の漕ぐ自転車の前を、何やら半透明の、灰色をした、大きさは20cm前後の、平たい何かが横切った。
目の前数メートル、地上30~40cmくらいだろうか。
武庫川の自転車道は夜は街灯も少ないのだが、少し上を並行して走る自動車用道路からライトが漏れてくる。向こうから車が通過するたびに明滅する路上で、暗いとはいっても、それが半透明で灰色、平たい、ということはわりとはっきりと見えたのである。
そいつは川側からきて自動車道のある土手の方へ飛んでいったが、通過する車の音で土手前の茂みに入ったとしてもその音は聞こえなかったから、それがどこへ消えたのかはわからない。

視覚的な残像としては、コウモリの羽のような形状が頭に残っている。
しかしまさか半透明のコウモリはいないし、そもそも20cmもある大きな種はこの武庫川にはいないだろう。

自転車を漕ぎながら、さっきのは何なのだ、と考え続ける。

以前にも同じ武庫川自転車道の似たような場所で、謎の生物に遭遇したことがある。
それは真上から落下してきて自転車走行中の僕の右ひじに当たり、自転車を止めて振り返ったときにはもう行方不明になっていた。ひじに当たった感触からなんらかの生き物であることはわかったが結局正体はわからずじまい。鳥のヒナでも樹上から落下してきたのか、と思ったのだが、路上にそれらしきものは落ちていなかった。
ううむ。何かと落ちてきたり横切ったりする変な場所なのだ。

落下してきたほうの何かはさておき(鳥のヒナだということにしておく)、さっきの自転車の前を横切った半透明灰色の平たい何か、のことである。
わからないもののことを考え続けていると、記憶の中の映像は自分の見知った何かとの共通点を探りはじめ、じょじょにそれに寄った形にすり寄ってくる。
たとえばさっき、「コウモリの羽のような形状」と書いた。だが、それが本当にコウモリの羽のような形状に見えていたのかは今となっては僕にすらわからないのだ。
何かわからないものを見て、何であるか結論づけたいために、僕の脳は所持する引き出しの中身を総動員して「それに近いもの」を探す。その結果がコウモリであっただけで、いったんコウモリみたいなもの、と答えを与えてしまうと、その答えが記憶の残像を縛るのである。
脳は自分が出した仮の答えに引っ張られて、自縄自縛で残像記憶をコウモリに似せてくる。その結果の「コウモリのようなもの」である。
人は「わからない」ということが一番の苦手だ。わからないものをわかったような気になるためには記憶を書き換えることも厭わない。
自分の記憶なんて一番アテにならないのである。
幽霊などの目撃譚は、たいていこのような順序で形成されるのだろうと思われる。

なぜか今回は脳が自分を騙そうとした(わけではなくともコウモリの残像を捏造しようとした)その過程を、妙に冷静に分析的に後追いできていた。
「 脳は僕を騙そうとした」というと、騙そうとした脳と、騙されなかった「僕」は別の存在ということになる。

んなわけあるかい。

騙されなかった「僕」も脳内の現象の一側面である。
となるとこれは脳内の別エリア同士の内部抗争ということになる。

なんていうことを考えながら自転車を漕いでいたのであるが、あれが半透明で灰色なコウモリでないということはわかったが、だったら何だったのだ、ということは結局わからずじまいである。

ほんとに何だったんでしょう。あれ。

「日々の写真」
現在1〜8までこちら( → click here )に掲載しています。
不定期更新中。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

何かをじっと見ているときに、関係のない映像が頭の中に流れたり、ありえないような体感をすることが日常的にある。
じっとして目の前を見ているはずなのに、なぜか少し視界がずれたように、別の経験が生まれる。
見るという経験が、それにとどまらない。

以前もレビューの中で書いたかもしれないのだけれど、わたし(レビュワー)はライブなどで音楽を聴いている時も、右目で前方を見て、左目は目の裏側の脳の方を眺めているように感じることが多い。
ふと何かが思い起こされたように頭の中に映像が流れてきたり、長年探していた答えになるような言葉がゴロゴロ転がり込んでくる。
集中し、同時にすごくリラックスした時、自分の内側が意のままにならず、普段は不可能なレベルの"意のまま"になる。
絵や写真をじっくり見ている時も、集中とリッラックスが同時にかなう場合は色々と別のイメージが見えたり、身体のどこかに実際には無い感覚みたいなものが生じたりする。眼球に圧を感じるとか、後頭部が鈍いとか、お腹を透明な何かがすり抜けるとか。

見ている上で、作品そのものに悪い意味での違和感があると(ライブでとんでもないところで音を外すとか、そういう類の)、その違和感に立ち止まってしまうので、こんな風な自由な体験ではなくなってしまうのだけど。

最近のカマウチさんの写真を見ている時に、浮かぶイメージがある。
強めの日差しの中立っているわたしの背後に、急に黄味がかった色の大きな壁が音もなく現れるのだけど、その真ん中には大きくも小さくもない穴が空いていて。
穴の向こう側は、わたしからは見えない。
振り返らず、わたしは背中に遠い壁の存在だけを感じている。
少し不気味に間の抜けた、テーン、というような音を静かに響かせ、振動するようなその音は少しづつ大きくなる。
ゴム毬が跳ねてくる。

テーン、テテーン、テーーーーーン…
どこからともなく跳ねてきてわたしの横を通り、壁に向かって低く大きく跳ねる。

最後、寸分の狂いもない計算式のような当然さで穴に吸い込まれていく。
同時に音も、ボールの気配も一瞬に消え去ってしまう。
ブラックアウトする。
すべてが止まる。
わたしの方がその穴の中にいるみたいに。

ほとんどが背後で起こっていることなのに、見えるように感じる。
客観的な視点と、主観的な視点、第三の視点とを行き来する、まるで夢の中のような感じ方なのだけど。

なんとも言えない心許なさ、とでも言おうか。結局のところのこの感覚を。

実際のわたしの目にはカマウチさんのように不思議なものを見ることなんてないのだけれど。
わたしはわたしで不思議なものを見せてもらっている。

ちなみにカマウチさんの写真がわたしに見せるゴム毬は、その時々に色や数を変えるのだけれど、灰色だったことは一度も無いと思う。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る