<1>
新大阪の近くにある親類の家に、最近何度か通っている。あまり愉快な理由ではないので詳細は書かない。少々気の滅入る話なのである。
気の滅入るその要件を解決すべく、夜の神崎川の東岸の工業道路を自転車で走る。夜でも大型の車両がごんごん走る脇を、こちらも機嫌が悪いもんだからごんごんと自転車を漕ぐ。
夜道なので自分の存在をアピールすべく、背負うカバンにも自転車のサドルの下にもデカデカとリフレクターをぶら下げ、白シャツに白いヘルメットを被っている。こんな鬱陶しい要件の途中でもし事故って死にでもしたら永劫に成仏できんからね。
鬱陶しさを漕ぐための燃料に換え、夜の工業道路を行く。鬱屈は運動に変換され、ばかに単純なようだが、新大阪に着くころには妙に頭の冴えた自分がいる。
そう、案外に単純なものなのである。
大型車両に脇を走られるたび、身が引き締まり、気を整え、ついでのようにさっきまで満載していた鬱陶しさも排出されていく。新大阪に着くころには聖者のような清らかさである(多少嘘)。
自転車って偉大だ。滅入ったら自転車だぜ。
冴えた頭で要件を終え、鬱憤を燃料に消化しながら来た道を、少し気が抜けた感じで帰る。往路とは道を変えて神崎川の西岸を走ってみる。
途中、舗装路が途切れ、河川敷に降りて未舗装路を通らねばならない箇所があった。線路と交差する架橋をくぐった先を見上げると、なんだか既視感のある駅である。
知った駅にものすごく似ている。
まぁ駅というのは似た規模の町にあるものならばたいていは似たような姿をしていて、そんなに個性があるものは多くない。駅どころか、街並みだって似通っている昨今である。たとえば京都の四条河原町と那覇の国際通りであってもすぐには見分けがつかなかったりもする。駅ぐらい似ていても不思議はない。
それにしても目の前にある駅は、僕の知ってるあの駅に本当に似ている。
自宅(尼崎)から大阪方面に自転車で出かけるときに通過し、駅の入口わきにあるセブンティーンアイスの自販機がいつも気になり、しかし自宅からまだ7kmしか離れていないのでいくら盛夏であっても涼をとるにはまだ早いだろうと結局買わずに通過する、そういう小さな葛藤が起きる駅。阪急神崎川駅である。
この神崎川駅そっくりな駅は、何という駅なのか。
たっぷり十数秒の沈思のあと、出た答えは衝撃的であった。
神崎川駅である。
似ている似ていないの段ではない、神崎川駅そのものなのだった。
単純に、いつも通過する道とは違うはじめて通る道で、しかも全く違う方角に進む中で駅に遭遇したので、脳内地図がまったく一致しなかったのである。なんでこんなところに神崎川駅が?
しかしこの自問も相当に間が抜けている。
今自分がそのそばを走ってきたこの大きな川の名前は何かな?
はい、神崎川です。
神崎川のそばに神崎川駅があって、何かおかしいのかな?
・・・いえ、おかしくなんかないです。
いつも神崎川駅を通過するのとはまったく別目的の移動の途中で同じ駅に遭遇した、話としてはそれだけのことなのだが、脳内地図上の異なるレイヤー上に位置した点が、え? というような方向で重なったのである。
今は地図アプリをスクロールし続ければ無限に地続きの世界を感覚的に受容できるけれど、本になった地図やシートタイプの地図しかなかった時代には、ある場とある場を繋ぐ、一種の空間飛躍的な想像力のようなものが必要だった。
言い方を変えれば、僕の中で神崎川の駅は脳内地図のページとページの境目に存在していたわけだ。
一度それがページを超えて繋がると、脳内地図の領域は倍に広がる。
その瞬間が、なかなかに楽しい。まさに領土が拡大する思いである。
<2>
神崎川は大阪市と摂津市の市境、東淀川区の江口で細く淀川から分れて始まり、吹田・豊中をかすめて尼崎に流れ込んだ後は猪名川・藻川と合流して戸ノ内の南で雄渾な大河になる。
僕がいつも見ているのは、この大きな神崎川である。
そのまま南下し西淀川区佃で本流と左門殿川(さもんどがわ)に分岐する。
その左門殿川と再び合流するときなぜか中島川と名前が変わり、神崎川は合流の手前から出来島の埋立地を通って海に吐き出される、まるで水路のようなショボい川の名となり果てる。
戸ノ内の合流点の雄姿を見慣れたあとでは、このショボ水路に降格されて海へ向かう神崎川は哀れである。まさに「末路」という文字が思い浮かんでしまう。
この仕打ちは解せない。大・神崎に謝ってほしい。
本当は左門殿川と再び合流するあたりが昔の海岸線だった。神崎川は神崎川としてその流路を全うしていたはずである。
しかし明治以降、海岸の埋め立てが進み(出来島や中島など、埋め立て地であることを自己申告しているような地名だ)、伸びた流路の分だけ中島川と名を変えられてしまった。新しい時代の埋立工事の誇らしさのようなものが、歴史的な神崎という名を駆逐してしまったということだ。
<3>
つい最近、ぶらぶらと戸ノ内近辺を歩いていたら、神崎遊女塚というのを見つけた。
神崎川が淀川から分岐する江口という場所も平安時代からの遊里で、河口の神崎も同様だった。
江口と神崎。遊里に始まり遊里に終わる川だったのだ。
つまり昔から水運交通の要衝だったということである。人が行き交う場にはそういう所が出来上がる。
新古今和歌集には西行と江口の遊女が交わした歌が載るし、後鳥羽上皇も何度も江口や神崎の遊女を招じて宴を開いた。遊女とはいっても古代中世と必ずしも賤業とは見なされていないようで、歌舞音曲に通じた芸能者でもあり、後鳥羽上皇は江口の遊女・丹波局との間に皇子(承仁法親王)をもうけている。藤原氏の貴族たちにも江口や神崎の遊女を母とする者が散見される。
<4>
9月15日。
神崎川の始点、淀川から分岐する一津屋樋門まで遡り、そこから下流まで自転車で流れを追いかけて見ることにした。いつもは土手道を行くので気が付かなかったが、神崎川東岸の河川敷に、始点からほぼ下流まで、自転車道が通っていた。これは走りやすい。
総距離は21キロと少し。案外と短い川である。
<5>
神崎川西岸に「神崎」という名前のバス停があり、何がと問われてもきちんと答えられないのだが、僕はこの場所が以前からすごく好きなのだ。
夜、バスの運行も止まったような時刻に、ずっとこのバス停に座って時を過ごしてみたことも何度かある。突然の豪雨にやられてこのバス停で雨宿りしたのが最初だった。
ああ、なんかここはいいぞ、と、雨がやんでもしばらくそこに座っていた。
通る車の数も減り、雨音もなくなり、静かな中に遠く水流の音が低く鳴る。
藻川と合流した猪名川がさらに神崎川に流入した直後の、一番大きな川幅となった神崎川のそばに神崎のバス停はあり、その膨大な水量の音が堤防で減衰されて染み渡るように届く。
近くて遠い、大きなものの音がする。