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3F/長期滞在者&more

中上健次の世界を追って 後編

長期滞在者

前回の記事からの続き。

翌朝、信じられないくらいの頭痛で目が覚める。

ちゃんと財布も携帯もある。ネックウォーマーだけ、どこかに忘れてきたよう。

早起きして、熊野古道の中腹にある滝を見に行こうと思っていたが、まったくもって間に合う時間じゃなかった。

部屋を出て1階に下りると、宿のおばちゃんがソファに座っていて、「朝ごはん、トースト焼けるけどどうします?」と言われるが、食欲が皆無なので、「ちょっと二日酔い気味で…」と伝えてお断りする。申し訳ない気持ちになる。

シャワーだけ浴びさせてもらい、チェックアウトする。

昼過ぎに、再び中上健次記念館に行く予定だったが、それまで時間があり余っているので、中心部から距離の離れたところにある中上健次のお墓に歩いて行くことにする。

予め地図で確認すると、お墓はイオンの向かいにあるようだった。

イオンまでの道沿いには材木屋が何軒もあった。昨夜飲み屋で出会った、ランボルギーニに乗ってるおっちゃんもこの近くの木材屋を経営しているんやろうかと頭を巡らす。

そこそこの大きさのイオンに到着した途端、腹が痛くなり、トイレに駆け込む。深酒をした翌日は大抵こうなる。吐きそうなくらい気持ちが悪かったが、一方で腹も減っていることに気付く。

イオンの中にあった、丼ぶりとうどんを看板に推したお店で朝飯兼昼食をとることにする。原価80円くらいやろうなと思いつつ、お腹に優しそうな卵とじとろろうどん500円を注文する。二日酔いの胃袋に、優しく沁み渡る美味しさは500円では収まらない価値があった。

その後、重過ぎる頭と身体のギアを上げようと、パン屋でコーヒーを買って外で飲もうとしたが、何回か口に入れたところでお腹が痛むのが分かり途中で断念する。

ともかく動こうと思い、イオンの向かいにある墓地を散策するが、中上健次の墓石の案内はどこにもない。墓地という場所は、全員を平等に扱う必要があり、著名人だからといって案内などしないものなんかなと思う。

ググれば、どの辺りに中上健次の墓があるのか直ぐに分かるかもなと思ったが、わざわざ調べるのも癪だなと思い、歩いて探すことにする。が、探しても探しても見つからない。

あきらめムードで墓地を下り、大通り沿いを歩いていると、先ほど探していた空間は墓地全体のほんの一斜面でしかなく、裏面には広大な墓地が広がっていた。

先ほどの裏面(本来はこちらが表のはず)の墓の密集地帯まで歩いていくと、中上健次の墓の案内板があった。が、矢印に沿って歩いても見当たらない。さらに奥まで歩いて、ようやく次の案内板を発見する。

だが、案内通りの方角に歩いて探すが、なかなか見当たらない。ここまで来たものの引き返そうかなと思い始めたとき、周りよりも少し大きめのスペースをとった墓があり、それが中上健次の墓であった。

鞄の中に、前日に佐藤春夫記念館でもらったミカンと、宿の部屋で呑もうと思って買っておいた太平洋のワンカップが入っていたので、お供え物としてお墓に置いてきた。お供えしているところを誰かに見られたら少し恥ずかしいなという気持ちが出て、さっと手を合わせてお祈りし、墓から離れた。

墓を下ると、古ぼけた大きめの建物にぶつかった。屠殺場であった。いまも使われているのかは分からなかった。

数ヶ月前、ドバイで知り合った、日本のWAGYUを海外卸している知人が、日本では屠殺場は数件しかないと話していたが、この屠殺場もいまはもう使われていないのだろうか。

屠殺場の周りの路地は、新宮の駅前とも異なり、独特な雰囲気を醸し出していた。

気が付くと13時を過ぎており、図書館に訪れる時間が迫っていた。前日初めて訪れたのに、既にもう懐かしい気分で図書館に向かう。

3階の資料室に向かうと、ドアは空いており、女性のスタッフAさんがいた。

私が来ることは他の職員から伝わっていたようだった。

「昨日も来て頂いたようですが、何か聞きたいことはありますか?」と開口一番に聞かれる。

記念館には、中上健次の愛読者から、研究者まで様々な人が訪れるはずだ。そして、それぞれが知っていること、知りたいことは当然違うはずだなと思った。

中上健次を特集した雑誌を捲り、そこに載っている写真を切り口に、Aさんに解説して頂く。自殺してしまった中上健次のお兄さんがとにかく男前だった。そして、幼い写真を見ても、中上健次はそのまま中上健次だった。


途中、 「こちらの人は中上をナカウエと呼ぶ風習があるんですよ」とAさんが話しているのを聞き、昨日飲み屋で出会ったおっちゃんがナカウエと呼んでいたことに合点がいった。

中上健次と現在の新宮を繋げる活動の場である、熊野大学の話も伺った。

現在も年1回開催される熊野大学に合わせて、中上健次を愛する全国のファン、研究者や地元の人達が新宮に一同に会する。会は1泊2日で、みなが同じホテルに泊まり、その夜の宴会は毎年大盛り上がりのよう。当然、太平洋も振舞われるのだろう。そして、熊野大学に合わせて新宮に訪れる人の中には、会の数日前から新宮入りし、海に潜ったり熊野古道を歩いたりする人もいるよう。

今年はとても著名な方(その名も教授)がゲストで訪れる予定で、予約も満員になっていたが、台風の影響で中止になってしまったとのこと。来年度も同じゲストで開催を予定しているとのことで、私も何とか行きたいなと思った。

30分ほど説明を聞いた後、「Aさんはもともと中上健次のファンで、現在は資料室の管理に携わってはるんですか?」と疑問に思ったことを問いかけると、「いや昔は佐藤春夫記念館で長いこと働いていたけど、縁があってこちらに呼ばれて資料室に携わることになった。中上健次の小説そのものよりも、中上健次にまつわるエピソードを読んでいるのが好き」との返答があった。


豪快さももちろんだが、それだけに収まらない人間味があるところが、中上健次が様々な分野の著名人に愛されるゆえんか。

「15時頃に電車に乗らないといけないんですが、どこか中上健次がよく通ってたお店とか、この辺りありますか」
「そうね、中上健次の同級生の方がやっている本屋が歩いて10分ほどのところにあって、私もよく通ってました。そこがよさそうですね。」

他に、中上健次がよくカレーライスを食べていたという喫茶店を教えてもらい、電車に乗るまでの残り1時間の間に、本屋と喫茶店を廻ることにした。

本屋は予想していた通り、前日に目の前を通った小さな本屋だった。その時は必要な物だけ置いてある本屋かなと思っていたが、中に入ると中上健次に纏わる本を並べたコーナーがあった。中上健次の著書だけでなく、熊野大学が発行している雑誌、冊子等も置いてある。

貴重な本がどれかは私には判断できなかったが、いつ入手できるか分からないし、最も気になったものを一冊買うことに決め、結局、熊野大学が発行していた「牛王」という文集の中上健次60周記念号を1冊購入。まさに、資料室で話が出たように、生前の中上健次について多くの人達が語った内容が入っており、帰りの電車の中で読むのに最適だと思った。

その後、喫茶店で中上健次が愛したカレーライスを食べる。ルーがドロッととても濃く、懐かしい味のカレーだった。

二日間歩いてるうちに、新宮の地理がだいぶ分かってきたが、昨夜のスナックは見つからなかった。

駅までの帰り道、古びたアーケード内にレコード屋があったが、特に収穫はなかった。その目と鼻の先にある、新しくできた屋内のイベントスペースでは、子ども達によるダンス大会が開かれており、アーケードの中で唯一この空間だけ人だかりができていた。

新宮を去るときが来た。既に実家の神戸には帰ることができない時間だったので、途中紀伊田辺の宿で一泊することにして、電車に乗った。駅には大量の魚が吊るされていた。

年末年始であったので、本来の新宮の姿とは異なっていたかもしれないが、私にとってはとても親和性を強く感じる街であった。

パワースポットやその界隈の事象にはまったく興味が無いが、新宮はエネルギーの湧く街だった。踏ん張っていないと山から海にそのまま吹き飛ばされて行きそうな、精力が必要になる街だと感じた。釜ヶ崎や山谷で感じた諦めムードを笑い飛ばすような力とは異なり、地に根を張る力が必要になる街だと感じられた。

【おまけ】

電車の中で読んでいた「牛王」には、中上健次に纏わる心温まるエピソードが多く記されていた。飲まされ過ぎて気付いたら伊豆にいた話、中上健次の一声でシビ船(紀伊半島から出港する遠洋まぐろ漁船)に乗らされた若者の話など。また、記憶が無くなるまで飲んで寝て目を覚ますと、中上健次が煙草を燻らせながら原稿と向き合っていた様子も綴られていた。

中でも、最も心に残ったのが、瀬戸内寂聴が寄稿したエピソードだった。熊野大学でゲストとして呼ばれた瀬戸内寂聴は地元の人に分かるような易しい講義を行った。が、続いて出てきた中上健次は、地元の人がポカンとし、1時間後には大勢が寝ているような難解な話をし続けていたという。打ち上げの席で、なぜ聴衆のことを意識した講義にしなかったのかと問うと「東京で行っている最先端のものをそのまま地元に持ってこなければ、講義を行う意味がないと思ったから」だという。常に真剣勝負だった中上健次の姿を掬いとった一篇だった。

そんな偉人を生んだ新宮の地。今年もなんとか行く機会を作りたい。

キタムラ レオナ

キタムラ レオナ

1988年兵庫生まれ

Reviewed by
小峰 隆寛

後編となるこの旅はレオナさんに何をもたらしたのか。それは、単なる中上健次愛好家としての満足だけではなく、一人の人生をより深く知ることで達せられる、一種の切なさも含まれていた。

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