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3F/長期滞在者&more

猫にモンク

長期滞在者

夜、ウォーキングしていると、目の前の暗がりを貧相に痩せ汚れた猫がゆっくり横切っていった。かなり老齢なのだろう、足どりに力がなかった。
途中近づいていく僕にも気づいたようだが、警戒するでもなく、気だるげに一瞥をくれただけでそのまま暗がりに消えていく。

僕はそのときiPodの音楽をランダム選曲にしてイヤホンで聴きながら歩いていたのだが、その老猫が横切ったときたまたま流れていたのはセロニアス・モンクの「All Alone」だった。
いろんな情報が一気に流入してくる中で、一番最初に感じたのは、
「この曲とこの猫は合わんな」

もちろん老猫はモンクのこの演奏のために生きているのではないし、モンクはこの猫用BGMにこの曲を弾いたわけでもない。合うとか合わないとか、どこの高みからの眺めなのかと、あとからは思う。
が、ともかくそのとき「合わない」と感じたのだ。

曲のタイトルとしては、ベタなくらいに似合っている。くたびれた老猫に「All Alone」とは出来すぎである。
猫が暗がりに消えるころこの曲が終わって、次に流れてきたのは小島麻由美の「光と影」だった。タイトル的に追い打ちをかけてくる。嘘くさいくらいの配曲だ。

そんなこんなで、モンクの曲と老猫を「似合わん」とまず思い、なぜ似合わないのかを、歩くのを再開しながら考えてみたのである。
わびしい風情の老猫と、タイトル通り決して明るくはないモンクの曲、うまくいけば噛み合う可能性だってあったはずだ。
だが双方がまとう寂しさのベクトルが、寂しさの背負う文化が、なんか違う感じがしたのだ。先に言っておくが、これはしょーもない先入観の話である。
やせこけた老猫に昭和的懐古郷愁を勝手に背負わせて 、モンクの、あの時代のジャズ特有の妙にもったいつけたような叙情とは「合わない」と断じる。
我ながら勝手で傲慢なものだと思う。

僕は言葉は檻だと、常々考えている。
人が何かを認識するうえで必要な「言葉」が、かえってその認識を狭い檻に閉じ込めてしまい、言葉に整理される前の混沌雑多な情報が削ぎ落された残骸しか僕らは受け取ることができない。
だから整理されてしまう以前の混沌をそのまま掴まえられる(かもしれない)「写真」が好きなのだ。これは今までさんざんあちこちに書いてきたことだ。

音楽というのは言葉ではない。
ところが、言葉ではないのに、言葉の代替品のような強度を持っている。それはどういう仕組みなのだろうと前々から不思議に思っていた。
意味を持たない音であるのに、言葉よりも直截な指向性に満ちていて、たとえばドミソと鳴らせば明るく真っすぐ(C)、ドミ♭ソと鳴らせば物悲しく(Cm)、ドミソに7度の音(シ)を足せばほの明るい中にもやや憂いを帯びて聴こえる(CM7)、等々。
こういう音響の特性は言葉に裏打ちされないのにほぼ万人に伝わる習性を持っていて、音楽家はこの習性を組み合わせて人の情感を誘導する音の連なり(=曲)を作る。
うむむ。言葉でないだけに、理屈がよくわからない。

西洋的音楽体系の完全に外にいる人というのが今でもこの世界にいるならば(たとえば戦前の沖縄離島とかには、住んでいる島の唄しか聴いたことのない純粋培養の島唄名人みたいな人も存在しただろう)、その人にもドミソとドミ♭ソとドミソシは現代人が聴くのと同じ作用を及ぼすのだろうか。
そう考えるならば、答は否、なんじゃないかという気がする。
やはりある程度の時代的、習慣的、訓練的な刷り込みのようなものがあって、和声の感受のされ方も異なってくるのではないだろうか。
人間の聴覚の仕組み的に、何度と何度の音を合わせれば快、何度の音が加われば不協、というような生理的なものというのはある程度備わっているとしても、おそらくそれも時代とともに揺れ動く。
根拠はないけれど、太古にラスコーの壁画を描いていた人々が、描きながら「C – F – G7 – C」のコードがハマる歌を歌っていたとは考えにくい(笑

そう考え、結局音楽も言葉なのか、と思う。
いや、音楽が言葉なのではなく、その時代時代の音の受け取られ方が、言葉に乗って形作られる。音も言葉に言いくるめられる。そういう気がする。

老いた猫の覚束ない足取りに、本当は重ねるべき音楽などないだろう。言葉以上に意味を与えてしまう上、音は消えた途端に責任を放棄する。
猫にモンクが合わないのではなかった。猫にはどんな音楽も不要なのだ。
音楽に装飾してもらうまでもなく、猫は猫だ。
そして音楽は音楽で孤高で居よ。その孤高をこそ聴け・・・ウォーキングの「ながら」で聴いてたやつが言う台詞じゃないな、すみません。

と、とりとめもなくそんなこんなを考えながら夜道を歩いたのだった。

[ おまけのおしらせ ]

ところで最近、私家版の写真集を作っています。
コロナは収まらず、来年の今がどんな世界なのかも想像がつきません。
たしからしさ、みたいなものがどんどん消える。
冗談ではなく、僕がいつまで生きているかなんてことも(まぁ僕に限らずですが)わからない。
もちろん死にたくもないし、できるならば人に迷惑をかけるくらいに生き続けたい所存ではありますが。

何があるかわからない世の中で、何かあっても、まぁ贅沢は言いますまい、何人かだけでもいいので、誰かの手元に僕の写真がいっときでも残れば、ちょっと嬉しいではないか。
そう考えて、私家版写真集を作りました。
現在3種類あります。もし興味のある方いらっしゃいましたら、→こちらへ。

自賛ですが、なかなか面白い本になっていると思います。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

他人の思考過程を、自分の本来の思考過程に(一時的であれ)取り込む体験で呼吸は簡単に乱れる。
自分の本来の速さにそぐわない句読点、文節の長さ、語彙の幅、転調。
あまり文章を読まない人間が急にぐっと他人の文を読み込むというのは
まるできちんと地形を調べないままに分水路をしき、災害を招くような危うさを持っている。

読書の経験で「あわない」文体、というのもわりとこの呼吸の苦しさみたいなものが影響するんだろうなと思う。
その変化や波を快か不快かに振り分けて、不快と判断したものに対しては苦手だという意識になるのかなと。

この数日、ぼんやり過ごしていたためか、とても脳がスローな感じがしている。
もともと頭の回転はかなり遅い方だと自覚しているので
急に読み込んだこの文章のアップテンポな速さに振り落とされて、今、結構胸がドキドキいっているのがわかる。

カマウチさんのいう言葉という檻、というもの。
しかしそれは文章となる過程でここに音楽のようにテンポがのる。
目の前の誰かが喋るのを耳にするのではなく
読む自分の内側からテンポが作られ、呼吸が乗っ取られる。
そうして乗っ取った呼吸で、何を体感させ、伝えたかった情報を修飾するのか、とか。
そこにコードはないけれど、個々人の持つ材質によって跳ね返る音の大きさや質が変化するような面白さが見える。

長くレビュワーをさせていただいていたってこれだもの。
ちょっと、早く走った時みたいに胸が痛い今日のわたしだけれど、誰かにはきっと、颯爽としたジョギングの呼吸だし、また誰かには、カマウチさんと同じ落ち着いた夜の散歩のテンポなのだろう。

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