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3F/長期滞在者&more

王墓と王国と

長期滞在者

子供の頃見ていたものを大人になって久しぶりに見ると、あれ、こんなに小さかったっけ、と思うことがよくある。
幼少の記憶だと、自分の体が大きくなっても記憶の中のそれは当時のスケール感のままである。自分の体が成長した縮尺を、成長後の記憶に反映できていないのだ。

小学生の頃、田舎で見たガガンボ(あの、蚊みたいな形のでかいやつ)がものすごく大きくて、感覚的には体長20cm以上あったような記憶があるのだが、調べてみると「ミカドガガンボ」という最大の種でも羽を伸ばした大きさが11~12cmを越えないというから、おそらく僕の記憶が間違っているのである。
ガガンボという昆虫をそのとき初めて知ったのなら「異常にデカい蚊!!」という驚きもその縮尺の狂いに関与していたかもしれない。
たしかにあれは蚊のバケモノにしか見えない。

昔の記憶と縮尺が違うという経験は、たいていはこのように「もっと大きいと思っていた」だと思う。
ところが最近、逆の経験をしたのだ。
「こんなに大きかったかな」

僕は高校生の頃まで堺に住んでいた。
以前ここに書いたように、定期的に和泉市に通う用事があり、いつもは自転車で朝から行って夜遅く帰ってくるのだけれど、その日はたまたま日の高いうちに帰路につくことになり、せっかくだから久しぶりに堺をうろうろしてみることにした。堺市は和泉市の隣なのである。

まぁ、うろうろとは言っても、時間も無限にあるわけでなし、じゃあ一箇所だけどこか思い出深い場所はどこだろうと考えて、ニサンザイ古墳に決めた。

堺といえば百舌鳥(もず)古墳群である。最近世界遺産とやらに認定され脚光を浴びている。
僕が高校まで住んでいた家は古墳群中二番目に大きい履中天皇陵のすぐそばだったし、世界一大きいと有名な仁徳天皇陵も自転車ですぐに行けるような距離だった。

しかし一番なじみがあったのはニサンザイ古墳という不思議な名前の古墳である。
なぜなじみがあるかといえば、高校時代、よくこの古墳の周濠(堀)のフチで学校をサボっていたからだ。
巨大な前方後円墳の美しい墳丘を眺めながら、丸一日ここでぼーっとしたりもしていた。

普通、○○天皇陵というようなものは、宮内庁によって厳重に管理されているから、なかなか近くまでは寄れないものである。世界最大級とされる仁徳天皇陵など、たしかに巨大だけれど、何重かある周濠(堀)の外側から遠く眺めるしかないので、なんだか大きな森があるなぁ、くらいにしかわからない(実際見に来てがっかりした人も多いだろう)。
しかしニサンザイ古墳は内濠のすぐ際まで寄れる。
あっけらかんと、巨大な墳丘の形が間近で見られるのである。はじめて見た人はちょっと感動すると思う。なんだか明け透けすぎて「墓」感が皆無なほどだ。
このニサンザイ古墳は誰々天皇の墓であるかわかっていないので宮内庁的にも「陵墓参考地」扱いであり、他の「天皇陵」よりもいろいろユルいのである。

この、高校生以来三十数年ぶりに見たニサンザイ古墳が、なんというか、記憶にある古墳より、かなり大きかったのだ。
高校生の頃の記憶だから別に身長も変わらないし、別に大きくも小さくも感じる理由はないけれど、それなのに、こんなに大きかったっけ、と自分の記憶力を勘繰るほどに大きく感じた。
よくこの周濠のフチにある柵に寄りかかって、下手すると朝から夕方まで過ごしたりしていた。ここでサボった日数は一日や二日の話ではない。よく見慣れた光景だったはずだ。
なのに、なんだかものすごく大きいのである。記憶の1.5倍くらいあるんじゃないかと思うほどに。

高校生の生活範囲というものを考えてみる。
住む場所から通う学校、その行き帰り、せいぜい通う図書館、近場の繁華街、という程度の中に限定されるのがそのころの生活だ。
授業をサボって日がな一日古墳の前にいる、なんてのも、それはそれでささやかな逸脱行為ではあって、そうやって少しずつ自分の生活領土を広げていくことになる。
今は大人になって行動範囲も広まるし、僕はさらに自転車人であるから、自分の足(やペダル)で踏んだ土地というものも広範に広がっている。
それを領土と例えるならば、高校生の時分から考えれば数十倍の広がりを持っているだろう。

高校生の「領土」は狭いのだ。
狭い王国の中にある、誰かわからぬ王の墓を、当時心地よいものと感じて時間を過ごした。
狭く知り尽くした領土の中で、巨大な前方後円墳も自分の地図の中にあった。大きいけれど知悉していた。それは自分の場所だった。
年をとって広がる領土の中で、世界は拡大しても、個々の場所へ向かう視線の熱度はやはり薄れてくるのだろう。巨大に見えるのではなく、茫洋と拡散して見えているのかもしれないな、などと思っている。
たとえば昨日読んだ本の内容は忘れているのに、高校生の頃読んだものは忘れなかったりする。これはもちろん脳と記憶のメカニズムの話ではあるけれど、それだけでなく、自分の領土として鍬を振るうように得た知識と、長じてから切実ではなくなった開墾作業という差が、やはりあるのかもしれない。
広く耕せるようになった。しかしどけた石塊の一つ一つまで覚えているような耕し方ではなくなってくる。
広くなったのはいいが、遠くなってしまってもいる。逆に言えば、簡単に手が届くような広さでは、この世界はない、と知ったということでもある。

・・・・・

記憶をはるかに超えて大きい墳丘の周囲を、周濠のフチに沿って作られた遊歩道で一周する。広い。
古墳の周囲をジョギングする一団がいる。墳丘の全長が約300mあるので、濠の一周は1㎞を超えるはずだ。皇居ランナーならぬ墳墓ランナーである。
後円部のフチだけ一部一般の墓地になっていて遊歩道が途切れるので、みなそこから折り返して何往復かしている。気持ちよさそうである。

高校生の僕はこの巨大な墳墓を眺めながら何を考えていたのだろうか。

百舌鳥古墳群の中で仁徳陵・履中陵に次ぐ三番目の大きさの巨大古墳でありながら、誰の墓であるかがわからないニサンザイ古墳。
詳しい話をするならば、実は仁徳陵も履中陵も、学術的には仁徳天皇や履中天皇の墓と決まったわけではなく、宮内庁がとりあえず仁徳天皇と履中天皇の墓であろう、と暫定的に決めているだけで信憑性はない(子である履中の墓が親の仁徳の墓よりも時代的に古い、等、伝承と考古学的知見に矛盾がある)。
そもそも仁徳天皇前後の時代(4世紀末から5世紀前半)なんて、まだまだ万世一系の天皇家、なんていうようなものでもなく、ちなみに「天皇」という呼称すらまだなく、ヤマト王権の首長は「大王(おおきみ)」といった。天皇という称号が使われるのは7世紀後半の天武天皇あたりからで、それ以前の天皇の名は後世の追号である。
大王というからには「大」ではない「王」が割拠していたのだろう。「大王」の称号もいろんな王勢力の間を移ろったかもしれない。そういう別勢力の王の墓である可能性もあるわけだ。
仁徳・履中陵が南北を軸に築かれているのにニサンザイ古墳は東西に軸を持つというのもいわくありげである。正史に書けない誰かが眠っているのかもしれない、と考えるとちょっとわくわくする。

誰が眠っていようがかまわないけれど、実際まじかでこの墳丘を眺めてみると、当時の途方もない土木工事が想像されて目が眩む思いがする。
当時はもっと海岸線が東に食い込んでいただろうから、瀬戸内海から航路やってきた人々は、百舌鳥の平野に聳える巨大墳墓群を海から一望して驚嘆したことだろう。ビル群ならぬ墳墓群が、国の繁栄の証だったのかもしれない。

・・・・・

最後に余談。
百舌鳥と書いてモズと読む。早贄で有名なハードボイルドな鳥である。
仁徳陵の周囲は百舌鳥耳原と呼ばれた場所で、地名の由来が面白い。
仁徳陵の造営工事中に一匹の鹿が工事現場にさまよい出て突然倒れて死んだ。不審に思った人々が鹿をとり巻くと、鹿の耳から一羽のモズが飛んで出た。鹿は耳の中から頭部を食い荒らされていた。それからその地を百舌鳥耳原と呼ぶようになった(『日本書紀』)。
それだけの話である。オチはない。モズ怖っ! 地名にしちゃえ! なんかそういう直球感が、すごくいいと思う。


カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

遠い記憶にあったものを、改めて前にした時。
実際にかたちあるものばかりではなく、読んだ本の中身だったり、1枚の絵画だったり。
その記憶との違いに驚くことは誰もが経験したことのある驚きだと思う。

でも、今回お話になっているのは、実在する場所とそのスケール。
・・・ではあるが、自身の背丈が今より小さかったから感じるその違いの話ではないのだ。

人は様々なバイアスにかけられながら、かかりながら生きている。
生きながらに広げてゆく領土の変化のようなものにも、それがあるようだ。
誰もが幾万のバイアスの中、その存在にすら気付けぬままにもそれらを山のように抱えている。

そういうバイアスに自覚的な人ほど、世界への目の解像度は高いのだと想像される。
解像度が高ければ、読み取れる情報量も増え、そこにあるものをないも同然のものにはしない。
知れば知るほど、世界は広くおもたく見えるはずだと、そういう側面もはらんでいるのではないだろうか。

また、土地の話というのは純粋に面白いものが多い気がする。
その土地の中で愛着や畏怖などをもって語り継がれ、生き残るためには自然と広義での面白みというものがなければならなかったと想像する。
そう思うと、その話の生まれた時代に比すれば、所謂「盛られた」部分も多いのかも知れない。
その土地の者がその土地を語る。たとえ狭き場所でも、等身大の営みの最中にはどこまでも目に映り込んで行くものだと思う。
何かを盛り込むにも、その基となるものは必要だ。
その土地にあるその目の解像度の高さというものもまた、ある種のバイアスであるとも言えるかも知れない。

解像度とバイアスについてくるくる考えながら、自分がまた新しくそれらを自分の中に増やす夜である。

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