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3F/長期滞在者&more

写真は続くのである

長期滞在者

仕事の帰路、自転車で武庫川沿いの自転車道を走っていて、暗中、河川敷をジョギングする人を追い抜いた。
風の強い夜だった。
びょおびょおと風の音の巻く中、追い抜いたはずのランナーの足音がざん、ざん、ざんと横から離れない。
僕は20km/hくらいの速度で走行しているから、すごいなぁ、この向かい風でマラソンの国際レースくらいのペースで走ってるんだなぁ、と感心したが、いつまで経っても音が消えないので、さすがにちょっと怖くなってきた。

振り返っても誰も走ってなかったら嫌だな。

土手の上の自動車道には街灯があるけれど、数メートル下がった自転車道とその横の河川敷にはあまり光が届かない。青暗い闇の中をざん、ざん、ざんという足音と、強風の音だけが聞こえている。

と、向こうから小さい灯りがゆらゆら揺れながらだんだん近づいて来、僕の自転車とすれ違って走り抜けていった。腕に小さな安全灯をつけた女性のランナーだった。
向こうから走ってきてすれ違ったのだから、今まで聞いていた、僕と同方向に走るランナーの足音と、聞こえてくる方向も音の遠近も違うはずだ。
なのに、足音はなぜか、さきほどから聞こえている、真横から聞こえるざん、ざん、ざん、だけなのである。

怪異である。

嘘。別に怪異ではない。たぶん。

強風の日だった。
巻くように吹きつける向かい風が、音の来る方向を撹乱し、音の立体感のようなものを変形させていたのだろう。
ずっとついてくるランナーの足音は、たぶん何人かのランナーが暗い河川敷を走っており、その音たちが立体感を喪失して、ずっとついてくる一人のランナーの足音のように聞こえていたのだと思う。

確かめるために自転車を止めて河川敷に出た。
今まで暗すぎて気がつかなかったが、何人もの人たちがジョギングしていた。
青い闇の中で黙々と走る人たちは、吹きすさぶ風の音の中でもなんだか幽玄に見えた。

いつもあの時間、こんなにたくさん走ってる人はいない。昨今の新型コロナウィルス禍の外出自粛要請で、閉塞した場所に行けないので、広大な場所を求めてこんな夜中の河川敷に人が出てきているのかもしれない。


何を書いても暗い話になりそうで、もう今月は書くのをやめようかとも思ったのだが。
このコロナ騒動で、写真活動どころか生活根底からひっくりかえるような変化が進行中で、しかもまだまだ当分収束しそうにない。

ここまで酷い状態になるとは予測していなかったから、少し前までとあるギャラリーの写真展(企画展)に出展しようといそいそとポートフォリオを作っていた。
しかしこの企画展も延期になってしまった。
野球や相撲は無観客試合が成立するが、さすがに写真展に無観客展示は難しい。僕に展示風景をかっこよく映像化する能力があれば、それはそれ、そういう作品として成立するかもしれないけれど、残念ながら動画映像に関してはど素人である。

このコロナ禍がいつまで続くのか誰にもわからない。
収束するまでは写真展も簡単ではない。
壁に架ける「展示」にこだわらなくてもいいじゃないか、とも考えはするが、プリントという物質を見せるのと、web等で「画像」を見せることはやはり違うなぁと思うのだ。
機材がデジタル化しても、 プロセスがデジタル化しただけで、ギャラリーで壁掛けで展示するという基本の形は今のところ変わっていない。いいのか悪いのかわからんのだけど。

物質としての品位のようなもの、という観点に立てば、たとえば旧来のモノクロのバライタプリント等に、最新のデジタル技術から製作されたプリントは追いついていない、とよくいわれる。
だが品位のようなもの、とわざと曖昧な書き方をしたのだが、デジタル世界から生み出された新しい写真は、逆に「バライタの品位」みたいなある意味狭隘な評価軸からも自由でなければならないはず。
そもそも手仕事という情緒に引っ張られただけのつまらない銀塩写真もあるし、スマホでトンとタップしただけの画像にも凄いものがあったりするのが写真の面白さなのだ。
スマホで撮られた「凄い写真」がそこにあるとして、その写真の一番効果的な展示方法はプリントされて壁に架かることだろうか? と考えると、あれはやはりデジタルのディスプレイで見られるべきもののような気がするし、iPhoneの設計者もプリントされることを第一義にはカメラ性能をチューニングしていないだろうと思う。
壁に架けるだけが写真の端座すべき場ではなかろう。

などとまぁ、展示の延期はいろんなことを考えさせる。
うだうだうだ。 ぐるぐるぐる。

もちろん僕は緻密に作られ展示された壁面の写真の素晴らしさを知った上で言ってるのである。
とある確保された空間を、自分の写真を使って自由に新しい「場」にすること。見る人の立ち位置を仮想的に変換し、想像力に通電させるトリガーとなる空間を作ること。写真を通してその後ろ側の世界を予感させること。
写真展というのはそういうものだと思っている。

だがそれ(展示)を封じられたとき、僕らがすべきことは何だろう。
それでも写真についてうだうだと考え、写真機を手にすることだろう。
展示が今できないからといって、写真を撮らないというのは、ありえない。
壁に架けるとかそうでない発表の仕方をするかとか、そもそもそれ以前に写真どころかアート的なもの全般が「不要不急」で括られてしまいがちな時勢である。我々に立つ瀬はない。
しかし立つ瀬はなくともだ。
あたい写真はやめないわ。プカプカプカ。
なぜと言われても困る。やめるわけにはいかないから写真を撮っているのでもある。いやこういうときにこそむしろ撮ってしまう。イライラしてモヤモヤして、見えない先行きに怯えながら写真はとまらない。
明日世界が滅ぶとしても、というやつである。木は植えないが写真は撮るだろう。

発表の機会があろうがなかろうが写真は続くのである。
これはどうにもしかたのないことである。



カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

発表の機会があろうがなかろうが、写真は続く。
なぜなら、

というその先は、写真を撮り、それを誰かが見たらわかるものであり、誰か(他人)が見なくても、自分が見ればわかるものがある。
何百文字もの言葉で説明する必要はない。
それだけのことだとしか、わたしには言える気がしない。

だから続くのだと。

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