子どものころ読んだ本などには、恐竜は体が大きいので尻尾に怪我をしても気づくのに長い時間がかかる、みたいなことが書いてあったけれど、これは現在では否定されていて、彼らはそこそこに俊敏な生物であったらしいということになっている。
神経の伝達速度というのはどの動物でもそんなに変わりがなく、ということは人間の20倍ある巨大な恐竜であっても、人間の20倍程度の時間で神経伝達が行われるということだ。人が感知する痛覚を仮に0.1秒として(もっと早そうだが)、全長20倍の恐竜でも2秒ほどで伝わるということである。2秒を「長い時間」とは言えまい。
最近、4年ほど使い続けたスマートフォンを買い替えた。廉価が売りの会社の必要最低限的機種を使い続けてきたので、もう全然動きが悪くなっていたのだ。もともと最低限なものが、入っているアプリの自動的なバージョンアップ等で容量を食い続け、最後は息も絶え絶えの牛歩器になっていた。
僕の職業はカメラマンであるからスマートフォンにカメラ機能は求めないし、レタッチャーでもあるからPCは常に目の前にある。スマートフォンに対する要求が他人よりはるかに低かったのだが、それにしても限界だった。
新しくなった、以前使っていた廉価ブランドの親分会社のスマートフォンは、ああ、これはたしかに便利だ。速い。みなが便利便利ともてはやすのがこれならわかる。恐竜が人間と同じ神経伝達速度を獲得したような異世界感がある。
人間の神経伝達速度は、太古からおそらくそんなには変化していないのだろうが、人間から人間への何かの伝達という意味では、大きな変化があった。
世界がこんなに狭くなったのは19世紀に電信や電話が発明された時代を端緒とするのだろう。これらの発明が現在のネット世界にいたる通信興隆の礎となった。僕の買い替え前の牛歩スマートフォンですら、昔からすれば神の機械だろう。
電信・電話以前の最速の伝達手段は何だろうか。
最初に思いつくのは馬である。江戸時代にも拠点ごとに馬を乗り換えていく伝馬制(早馬)という伝達手段があった。
しかし生き物のことであるし、乗り換え乗り換えて走ったとしても平均すれば大した速度にもならなかったろう。
江戸から京都まで500km、伝馬制というのは一宿駅ごとに馬を交換して走るのではなく、東海道に10カ所ほどしか拠点がなかったらしく、つまり一匹の馬が50km担当するということである。「早」馬が走れる距離ではないのだ。
調べてみると、そもそも馬というのはあまり持久力はない動物で、一日に動ける距離はせいぜい50~60km、しかもその距離を完遂しようと思ったら時速は6km程度であるという。急ぎ足の人間と変わらない。
江戸・京都間を馬で行くとするならば、10頭を乗り継いで10日間、というのが妥当ということになる。
競走馬のイメージがあるので馬は足の速い動物だと思いがちだが、あれはもちろん限られた短距離だから可能なのである。4本脚を駆使する馬は2本脚の人間より多量のエネルギーを必要とする。
では江戸・京都間で火急の通信が必要になった場合どうしたか。
そう、馬よりも人の方が速いのである。
継飛脚といって、宿駅ごとに配された飛脚がバトンタッチしながら走り続けると、最速3日で到達したという。夜は走れないので、500kmを3日だから1日12時間として36時間、時速14kmで休みなく走る計算だ。
3日というのは特殊な場合だろうが、6日で運ぶ「定六」とか「正六」と呼ばれる制度は定着していたらしい。走り手にアクシデントがあった場合も考えて二人一組で走る。一人怪我してももう一人が次の宿駅まで確実に届けるのである。
◆
ところで井上靖に『風濤』という小説があって、元寇を描いた中編なのだが、距離や通信速度ということを考えるのに、これがとても興味深い。
江戸から京都、とかいうような距離感覚ではなくて、はるか遠くモンゴル帝国がアジア東端の島国へ攻めてくる話である。
フビライが「日本をやっちまえ!」と命令しても、連絡だけで数ヶ月を要する距離で戦争が勃発する。人員の移動も情報の移動も途方もない距離がある。
数ヶ月かかろうが、戦争に情報戦的要素は不可欠だ。数ヶ月の間の数日を縮めた者がそれに勝つ。この不思議な時間感覚の戦争を、先陣を担わされた朝鮮半島の国からの視点で描いたのがこの小説だ。着眼点が素敵。一読をお勧めする。
◆
情報の伝達速度が昔とは桁違いに上がり、行き交う情報量も膨大になった。世界の様々な事象が解明され、それを一般人も共有できる時代になった(そもそもこの項の情報を、僕は専門家にも聞かず図書館にも行かず、ほぼウィキペディアをはじめとするネット情報の参照のみで書いている)。
我々の脳の情報処理能力もある程度は上がってはいるだろう。情報は脳を鍛える。
寿命も今より短く、脳を通過する情報量も今より少なかった時代のことを想像してみる。
情報が少なかったから薄い人生だったとは思わない。日々不確実な色々と対峙して生きていく。天気予報のない時代の農民や漁師、いつ主君が倒されるかわからない時代の武士。襲い来る疫病。出産も命懸け。
緊張感の濃淡の分布が今とは異なるだけで、幾分かシンプルで、対象範囲は狭いながらも振り幅の大きな精神生活を生きていたのだろう。
誰もが生の不確実さを知っていただろうし、身近にあったゆえに死にもある意味慣れ親しんでいたかもしれない。不確実な生を生きるため、またすぐそこにある死を受け入れるため、言葉や宗教のようなものが今より重きをなしていただろう。それは僕らの今知る科学なんかよりはるかに大きな力であったかもしれない。
いいとか悪いとかではなく、これからも一人の人間が対象とする世界は広がり続けていく。それとともにいろんな寛容さのようなものを身につけなければいけないはずだが、そこが追いつかないのでいろいろ問題も起きたりする。通信の速度に人間の度量が追いついていないのである。
◆
と、ここまで書いて、さぁまとめに入ろうというときに、友人ベガジロー氏からとんでもない情報がもたらされた。
電信・電話以前の最速の通信は早馬か人か、などと与太事を書いている場合ではない。おそるべき速度の通信手段が江戸中期からすでに存在したというのだ。
全国の米価の基準であった大阪堂島の米相場をいち早く全国に伝えるための通信システムで、旗振り通信と呼ばれた。その名の通り大型の手旗信号によるものである。
全国に旗振り山と呼ばれる中継地点があり、そこで大型の旗を使って手旗信号が発せられ、望遠鏡で視認ののち次の中継地点にまた手旗信号で送られる。
(望遠鏡に関しては、日本にはじめてもたらされたのは1613年東インド会社から徳川家康に献上されたものが最初と言われており、1820年には天体観測用の反射望遠鏡まで作られていたという。けっこう早い時期から実用に耐えるものが製作されていたらしい。)
詳しくは後に載せるウィキペディアのページを見て欲しいが、先に引用するならば、
「大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている。江戸までは箱根を超える際に飛脚を用いて1時間40分前後または8時間であった。」
(江戸までの時間は飛脚を用いた時間を加算しない/加算するの差)
こんな仰天の通信手段が、明治中期まで行われていたのだという。
広島まで27分! 新幹線で新大阪・広島間が1時間25分であることを考えると、3倍のスピードである。
本当に? こんなことが可能なのか?
昔テレビ番組で実証実験が行われ、ある程度可能であったろうということが書かれている。空気の濁った現代では、おそらく遠視距離が落ちて当時のようには行くまいが、もう少し短く拠点を継げば出来てしまうのかもしれない。「探偵!ナイトスクープ」あたりが実験してくれないだろうか。
というわけで、この項の前半で書いたことはいったい何だったのだろう、と、少し徒労感に襲われているのである。
→ ウィキペディア「旗振り通信」