自宅から60km離れた山間の市(丹波篠山)で出張仕事があった。同じ兵庫県内なのに公共交通機関では連絡が悪く時間のかかる場所で、どうせ時間がかかるのならば自転車で行くのが良いのではないか?
電車とバスを乗り継ぐ2時間半より、自転車の4時間の方が楽しいに決まってる。
そうです、私は自転車バカ。
片道60kmはちょうどよい距離に思える。撮影仕事ではないので重い機材も要らないし。
初めての場所なので下調べをする。二つの行き方があった。
(1)西回りで、はじめに一つだけ急峻な山(赤坂峠)を越えてあとはほぼ平坦な道が続くコース
(2)東回りで、ずっと猪名川町の坂を漕ぎ登り、最後にとどめの二連の山(西峠~後川中、標高約460/400m)を越えて丹波篠山市に入るキツめの山道コース
僕は距離を漕ぐのは好きだが、あまりヘヴィな坂道は経験がない。
なので時間に縛りのある往路は平坦コースを採択することにし、帰路は下り坂を満喫すべく山岳コースで帰ることにした。
若干不安だったのは、仕事終わりが18時で、その日の日没時刻が18時40分だったこと。
たった40分では山中道路の入口にしか辿り着けない。グーグルマップのストリートビューでざっと見る限り、街灯というものが見当たらないのである。暗黒の山中へ自転車を乗り入れることになるのだろうか。少し不安ではある。
しかしまぁ、いくらなんでも完全漆黒ということはあるまいよ。文明国日本の県道である。まさか本当に街灯がないとか・・・
・・・本当になかったのである。おおお。
仕事が終わるなりすぐに出発したが、山間道路に自転車を乗り入れてすぐ日は没した。情け容赦なく闇が襲来する。本当に街灯がない。
雨の降りそうな曇天で、遠い街の灯を雲が反射して、日没後もかすかに空は白んではいた。が、もちろん路面を照らすほどそんなものが明るいわけがない。黒い樹影の隙間から空の位置がわかるというだけの話だ。
一応自転車のライトは2基つけられるようにしてあり、2基とも予備も持参している。そのライトで路側帯を表す白線を照らして凝視しながら自転車を漕ぐが、そんな視界でスピードなど出せるはずもない。のろのろと坂を上っていく。
まず山を二つ越えなければならないのだ。この視界で。この暗さで。
ちょっと計画の杜撰を悔いた。いやこれ、もしかして大変なことをしているのではないか?
そしてこの山二つというのが、想像の倍ほども激しい斜度なのだった。
途中から漕げなくなり、つづら折りの坂を自転車を降りて押し歩く。
つづら折りって美しい日本語だけど、折れ曲がった先が暗黒で、ライトで路側帯を探さねば道筋もわからない。そんな坂なのだ。泣きそうである。
一応ずっとガードレールはあるから、間違って谷に落ちるようなことはないとは思うが。
闇というものがこんなに薄情なものだと初めて知った。
フィルム現像できるんじゃないかというような暗黒下、息も絶え絶えになり、ようやく一つ目の山頂(後川中・城東トンネル)を越す。
下り坂にかかってやっと自転車に乗れると思ったら、過度の疲労で足が言うことを聞かず、ふらついて一度自転車ごとコケた。暗闇で一人転ぶ男ありけり。痛み喚けどただ黒紙に墨を流すが如きの暗夜あるのみ。
坂を下るにつれて少し灯が増え、谷に入ると少し集落(後川地区)もあり、電気という文明の精華をありがたく噛み締める。
しかし僕は知ってる。この先にもう一つ、さっきみたいな山があるのだ。あれをもう一回やれと言うのだな。
あれをもう一回か。あれをもう一回なのか。そうなのか。
暗中過酷急峻山道。めそめそ。ぐずぐず。泣いても斜度は変わらぬ。とにかく行け。俺。進め。
沖縄の島唄にナークニーというのがある。
恩納岳あがた 里が生まり島よ(ウンナダキアガタ サトゥガンマリジマヨ)
杜ん押し退きてぃ 此方なさな(ムインウシヌキティ クガタナサナ)
「あの人の村が山の向こうにある。その山を押しのけてあなたの村をこっちに引き寄せたい」という豪快な恋の歌である(恩納ナビィの琉歌)。
ナビィさん、頼む、この山をどけてくれんか。ナークニーを歌いながら自転車を押したが、もちろん山は1ミリたりとも動きはしない。
体力を限界まで使って自転車を押す。
そもそも体力の限界まで何かをする、というのはいつ以来だろう。
高校陸上部で中距離走をしていたのだが、その練習のとき以来ではないか。
もう足が動かない。それでも足を出さねばならない。そういうことをしていた高校1年生から、すでに40年近くが経っている。40年間経験のないことを、今している。
ライトを最大照度にしていたので、二つ目の山を越す前に一つ目のライトの充電が切れた。取り替える。何らかの間違いで交換用ライトが充電されていなければ大変なことになる。点灯する。よかった、点いた。
途中数台の車に追い抜かされる。
暗黒中にヘッドライトで照らされた自転車を押す人影を見て、車の人もビビってるに違いない。幽霊かバカかどっちだ? はい、バカのほうです。
(途中、荷台の空いた軽トラなんかが通りかかったら泣きついて積んでもらおうかと真剣に考えていたが、そんな都合の良い車など現れない)
どれだけ苦行のように自転車を押しただろうか。
山頂近く、奇跡のように自販機が1基見え(あとから地図で確認したら「丹波猪村キャンプ場」の入り口だったようだ)、それが遠くから神の光のように見えた。
レッドブル神が隅っこに鎮座しておられる。210円で神様が買えるのか。文明は素晴らしいな。
レッドブルを体に染みわたらせ、あともう少しと思われる登り坂を、自転車を押して上る。
翼を授けろ。翼をください。今ーわたしのー願ーいごとがー。嘘。もう歌う元気もない。
ひたすら押す。黙って押す。
そしてようやく西峠を越える。
山頂でへたり込む。大の字に寝る。眠り込んでしまったら大変なのですぐ起きる。丹波篠山には有名な猪ばかりではなくツキノワグマも生息しているとことを思い出した。闇夜だしやつらも寝ていると信じたい。
まぁ猪や熊には遭遇しなくても、眠り込んだら車に轢かれる。嫌だ。急いで自転車にまたがる。体が鉛のように重い。
しかしあとは延々下るだけだ。ここからの坂道は友達だ。
登り終えてみれば、漆黒の闇の中両側にそそり立つ樹々の黒、空の黒、路面の黒にそれぞれの濃度があって、そのさまざまな黒の織り合いが美しくさえ感じられてくる。
黒がやっと恐怖の色ではなくなった。
とはいえ、下界に降りても街灯の少なさはあまり変わらない。文明国日本、街灯はせめて50mに1基はなければならない、という法律を作ってほしい。
猪名川町を縦に貫く県道12号を延々と下る。途中雨にも降られる。相当走っても街灯はあまり増えない。かなり暗いのだがほとんど車の通行もないので、わかりやすいセンターラインを照らしながら道の真ん中を駆け下りる。暗さにも慣れ、灯も少しずつ増え、怖さも麻痺して30km/h以上のスピードで降下する。
しかしいつまで下っても猪名川町。猪名川町。猪名川町。いつのまに猪名川町が世界征服を果たしたのかと思うくらい猪名川町。広いな。
やっと川西市に入り、尼崎に入り、自宅へ疲労困憊でたどりついた。
いやー、山道はもういいよ。僕は平地が好きだ!
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こんな泣き言を言うとはこのときはまだ思ってもいない、往路の写真を少し載せておきます。
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もちろんしんどいばかりではなく、今思い起こせば、山間道路の入り口を目指して日の落ちかけた山裾の道(県道306号)を走っていた十数キロの藍色の風景は、幽玄で美しかった。
思えば地獄が始まる前の浄土的光景なのだった。もう少し味わいたかったな。
(**古藤恵子さんより「タカサゴユリですよー」と注進あり。すみません!)