小学生のころ1~2年だけヤマハの音楽教室に通っていたことがあり、短い期間なので残念ながらこれと誇れる楽器の熟達には至らなかったのだが、楽典の基本は子供なりに学んだ。
なので楽譜は読めるのである。
読めるといっても、まぁあれだ。サリエリがモーツァルトの総譜を見ただけで涙を流す、みたいな「読める」ではなく、時間をかければ解読できる、というレベルなのだけれど。
中学高校のころYMOの一大ブームがあり、市立の図書館にまでYMOのバンドスコアがあったのでよく借りて読んだ。
YMOの音楽は打ち込みの走りであるし、譜面で見るととても精緻でメカニックで楽譜自体が美しい。また複雑な調性も少ないので僕程度の楽譜読解能力でも読めたのだ。
当時大ヒットした「ライディーン」はベースラインとコード進行が美しく、終曲部分のオーケストレーションが積まれていくさまが荘重で、それを総譜を読みながら頭の中で鳴らしてみるのが楽しかった。
Cメロ部分の少し複雑なコードの部分は忘れちゃったけど、それ以外は今でもソラで譜面書けるんじゃないかな、ライディーン。
その後カンテ・グランデで働くようになると、オーナー井上さんの影響でクラシックを聴くようになった。1930~50年代のトスカニーニの録音を色々教えてもらい、好きなものはCDで買い揃えた。
トスカニーニといえば徹底的にインテンポ(テンポを揺らさない)演奏することで知られ、ミスターメトロノームと揶揄されたくらいの人だが、そんな彼が精鋭揃いのNBC響を指揮すると、演奏が精緻すぎて交響曲の骨格が見えるような気になる。古いモノラル録音なのに一本一本の「骨」が聴こえるみたいなのだ。
モーツァルトの41番(ジュピター)4楽章なんか、ジュピター最短演奏記録でも狙っていたのかと思えるほどの爆速なのだが、そんな高速の中にもそこに詰め込まれた音骨の数々がギラギラに輝いて降ってくる。モーツァルト本人も天国でびっくりしているだろう。
YMOで譜面を解読する習慣がついていたのは幸いだった。音数の多いクラシックの方が解読のし甲斐があるのである。
古本屋で入手した ジュピターのスコア(総譜)を見ながらトスカニーニを聴く。譜面を見れば見るほど、聴こえる「骨」が増えてくる。主旋律に隠れていた背後を支える音たちが見え、こんな音が鳴っていたのか、と譜面に教えられる。
いうなればスコアは音楽の解剖図である。
作る側からすれば逆で、設計図としてのスコアが書かれてそれが音楽になるのだが、聴く側からすればそれは音楽の解剖図もしくは地図にあたる。
腑分けをするように、骨や筋の一本一本を探していく。はじめはまるで聞こえなかった音が、どんどん聞こえるようになってくるのがものすごく面白い。
言葉とか写真とかも、そうだよなぁと思いいたった。
言葉は世界を認識の網に掴まえつくそうとする試み。
世界を腑分けしていくことである。
一度言語化され、認識の棚に並べられることで、初めてそれが「ある」ことになる。
写真も時間の解剖図であるという側面を持つ。
切り取られることではじめて見えてくる世界の相貌というものがある。
面白いもので、譜面上に発見した音は、一度知ってしまうと何をどうしても聴こえてしまう。どうしてこれが今まで聞こえなかったのかが不思議なほどに。
言葉もそうだ。猫という言葉を知らないものには目の前の黒い毛のモフモフした目つきの鋭い動くものが何なのか判別できないが、言葉を知るとそれは猫でしかなくなる。
そういう意味で、写真は世界の何を解剖しているのだろうか。
世界は見たままの世界ではないという啓示なのか。
目の前の世界の様相を歪めて伝える視線のカラクリのことか?
あるはずなのにまだ見えないものを探しているという意味では写真は言葉と同じだ。