こんばんは。はじめましての人が大半だろうに、でも身近な人や、遠く離れた友人にも読んでほしいなと思って、それでどちらかというと近況報告のような心持ちでこの連載を再びはじめます。毎月7日の更新。07でお直しの日だよと、恥ずかしげもなく意気込んでいます。
暮らしお直しの真っ最中です
昨年の当番ノートの終わりに宣言したとおり、年末に会社をやめて、家にいる時間や、福島で過ごす時間、遠くに出かける時間が増えました。新しい環境で暮らしを組み立て直すことは、やはり時間がかかるなあと困難に思う時もままありますが、気づいたらまわり自営業者だらけの下町、東東京での交友関係や、いつも近くで支えてくれる友人、最近やっと応援してくれるようになった家族、久しぶりにどハマりした朝ドラ「半分、青い。」に助けられ、一層のびのび暮らしています。お直しをしているとき、例えば2時間以上靴下にらめっこしてると、だんだん靴下そのものを見る目の解像度が上がって、縫い目の構造や歩き方の癖がわかったり、ここも少し予め補強しとこかなんて工夫が芽生えてくるように、今の生活に対しても、できるだけゆっくりにらめっこして、カタツムリのような歩みで、お直ししていければなとぼんやり思っています。
お直しのこと
今一度、「直す」いう言葉を辞書で調べると、「修理する、修繕する、整える、繕う、そこなわれた気持ちなどをもとの状態にする」などが出てきます。広いです。このアトリエでは、改めてお直しをするその動機を「道具を手に持ち、小さな技術と暮らしの創意工夫を取り戻す、私にできる小さな世直し運動」とし、まずは、高い解像度でもって、お直しをする人や瞬間を見つけ出すこと、その所作や態度に対して言葉を紡ぐことを試みたいと思っています。今、時間ばかりはたんと手に入れたので、毎日の生活や福島での里山暮らしの中、遠い異国でのお直しをたくさんキャッチしたいなの意気込みです。
インド、シャンティニケタンでの暮らし
さて、新しい連載を異国の話でスタートするのはどうかと少し迷いましたが、新生活最初の出来事だったのですっとばせないなと、やっぱり選びました。よければ読み進めてください。
この冬にひと月、インド、西ベンガルにあるシャンティニケタンという街で暮らしました。インドの宮沢賢治(と呼ぶのが適切かは不明ですが)のような、詩人R・タゴールが作った大学を中心に、文化と芸術が花開くのどかな街。緑に重きを置いたキャンパスが街の中心に位置する感じや、リベラルな文化人が集まる様、手仕事が大事にされる様子など、学生時代の留学先だったアメリカ、ポートランドによく似たところだなと、気に入って過ごした大事な時間です。
「買ったほうが早い、安い」が浸透していない街
インドは当然、日本のように綺麗でピカピカしたモノに溢れた国ではありません。行ってないので正直よくわからないデリーやムンバイのような大都市圏はさておき、バングラデシュとの国境近く、インド亜大陸の右上端の小さな街シャンティニケタンには、先進国のような発達した流通の網の目は張り巡らされておらず、「直すより買った方が早い」とか「買った方が安い」といった価値観が浸透していない、私にはとても居心地のよい街でした。とはいえ、駅から続く街のメインストリートには路面店が並ぶだけでなく、道の隅にはたくさんの行商人や簡易な屋台のようなもの、シートらしきを敷いて物品や道具を並べただけの簡素な店などが溢れています。私が一目惚れして、その後数日通い店の隅でじっと様子を観察させてもらった靴とカバン修理の師匠(師弟関係に憧れがあるので気安く内心そう呼んでいた)のお店も、大通りの傍の木の下に、屋根をこしらえてシートで囲った、そういう簡素な、でも迫力のあるお店でした。以下に、その時書いたメモを載せます。
お直し師匠 Chandi Das氏の店 / ボルプール、西ベンガル、インド(2018.1.28)
師匠はこの木の下の場所に30年間店を構えている。一緒に働いているのは甥っ子。お昼間や夕方など混んでいる時間帯は、靴磨きを求めて人がひっきりなしに訪れている。師匠は一足約2、3分でそれを磨きあげる。ブラシを持つ手はリズミカルで迷いがない。一足15ルピー(約25円)。
師匠は地べたにダンボールを敷いて、あぐらのような足の組み方でその上に座る。椅子や机は必要ないのだろうか(痛くないのか)でも地べた(実際は師匠の店というか縄張りというかの部分は、コンクリートのステージのように一段あがっている)は、手を伸ばした先にいろんなものが届き(例えば次のお客の靴とか)便利そうでもある。
日が暮れて寒くなってきたので、ニット帽とマフラーを装備する師匠。客足がひと段落して、かばん修理に取り掛かる。
師匠は急いでるお客のは、なるべく優先してやってあげている。ビーチサンダルを持って来たお客は、替えの鼻緒も持参していた。だけど師匠はお客に屈しない。ペコペコもしない。直したサンダルが壊れたとお客が戻って来た時も、段取り通り休憩に行ってしまった(入れ替わりで帰ってきた甥っ子が直した)
師匠のお直しのやり方は、例えば、鼻緒が破れたサンダルが来た時は(カバンも同様)、破れ目のほつれ部分を切り落とし、半ば無理やり鼻緒を穴に再び差し込んで、蝋引きしたテグスで縫っていく。つまり、鼻緒は必然的に短くなる訳だが、それによってサンダルの足の甲の幅が減ってしまったりすることは、およそほとんど重視していない。師匠は自分の持っているいつも通りの技術と持ち時間で、師匠流にお直しをする。そっくり元通りとか、全くわからないようにではなく、そこに師匠の手が加わったことが一目で見て取れる。過剰な顧客への配慮はない。ちなみに鼻緒のお直しは5ルピー(約8円)、サンダル一周縫っても10ルピー(約16円)
黄金色のサンダルを直し終わって(師匠にしては長く時間がかかっていたもの)、私が「ダルン(すばらしい)」と言ったら、即座に「NO!」と言われた。私の稚拙すぎるベンガル語が通じてないのかと思って2回言ったけど、強く「NO!」と言われた。かっこいい。師匠は私がおやつに持参していたナッツも食べなかった(甥っ子は食べた)
***
これまで、私がお直しをやりたいと言うと、「お直しは作るより難しいよね。」と(特にものづくりをする人から)言われることがままありました。誰かから預かったものを綺麗に元通りにすることを求められる日本の街のお直し屋には、当然、絶対的な技術と緻密さが必要とされると思います。だからやっぱり私は”お直し屋”にはなれそうにもないし、そのつもりも。人から何かを預かってお直しをすることもしないと何となく決めています。
前の連載でも紹介しましたが、友人で建築家の佐藤研吾は「直す、というのは今あるモノに手を加えるということだ。(中略)今あるモノに手を加え次のモノを生み出していく。それが”直す”ということではないか」という言葉をくれました(この言葉にはこれまで何度も励まされています)。私が、「買ったほうが早い、安い」が浸透していない街、シャンティニケタンで見たのは、今あるモノに手を加えるリアルで素朴な職人のお直し。直すということは、使い続けたいということ、形が変わったとて、そのモノとの関係を継続していくんだということ。それは例えば、絶対的にそこにある自然に対して、寄り添うこと、手を加えること、共存して生や暮らしを継続していくんだという、里山で体感する人間古来の生活への態度にも近いんじゃないかなと、最近はそういうことを考えるに至りました。そのことなどは、またいつか。
***
おまけ
シャンティニケタンで通っていたカフェ。暑くても、あったかいチャイ(ごく少量)を飲む。
====================
Reviewed by 朝弘佳央理
目の前にいるひとの仕草ひとつでだいたい、そのひとの生業としていることとの向き合い方が分かる。
そのものを芯から愛でるように触る。
噛み付くように触る。
微妙な距離を置いて体温を伝えない触れ方。
触れていなくてもどこかで繋がっているような体(たい)を取る。
ものでなくてもいい。立ち方でもいい。それは地面やその空間を対象とした仕草のあり方だから。
見つめ方ひとつとっても同じこと。その眼差しはどの深さからやってきて、どこまで見通そうとしているか。
「お直しをしているとき、例えば2時間以上靴下にらめっこしてると、だんだん靴下そのものを見る目の解像度が上がって、縫い目の構造や歩き方の癖がわかったり、ここも少し予め補強しとこかなんて工夫が芽生えてくる」という箇所がとても好きです。
ものに触れるということ、創造ということは、まさにこういうことといつもいなければならない、と私は思うからです。
時間をかけて触れていれば、その相手の秘密が少しずつほどけてくる。
どんなに難解なことでも、そうしてそのものの中に見つけ出したことに耳を傾けつつほどこせば、自分だけのそのものとの関係ができてくるんじゃなかろうかと思います。
「直す、というのは今あるモノに手を加えるということだ。(中略)今あるモノに手を加え次のモノを生み出していく。それが”直す”ということではないか」という文中の佐藤研吾さんの言葉にふたたびはっとした。
果たして現代に生きるわたしたちは本当の意味でゼロからものを作る、ということができるのだろうか。
なんだか背中がきりりとなって、破けていたスカートを縫い直したりしてみました。
はしもとさゆりさんのお直しの連載、これからもどうぞお楽しみに!
====================