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お直しカフェ (20) お守りみたいなものを作る

お直しカフェ

こんにちは。元気ですか。

あんまりにも久しぶりなので、この半年にちまちま進めたお直しの振り返りからいってみたいと思います。

・靴下のダーニング

軍足のお直し。透けて大きな穴になっていたので、太めの毛糸で広範囲にダーニング。家族が増えて、穴が空いた靴下が出てくるペースもぐんと上がった。女性がファッションを兼ねて大事に選んで履く靴下と、男性が作業着の一部みたいに必要不可欠なものとして履いてる靴下じゃ、そもそも作りの丈夫さも違うし、後者は消耗品みたいでもあるし、全部ぜんぶを直すのはもう無理かもしれない! と新しい決断を迫られている。我が家には、洗濯を畳みながら穴やほつれを見つけた衣服を除けておいて入れる「お直し待ちカゴ」があるのだけど、そこがもう山盛りパンパン。だけども、この軍足は、風合いも好きだし、そこから選び取って、旅のお供にして、結構時間をかけてお直しした。もう少し長く履いてほしい。

・子どもの布団づくり

ずいぶん前に、福島で村のおばあちゃんから「昔、綿花育てて布団作ったよ」と聞いたことがあるような気がする。もしかしたらTVか本で見聞きしたものと混同してるのかもしれないのだけど、母親が嫁入り道具のひとつに布団を作って持たせた、というエピソードが引っかかっていって、ずっといつかやらなきゃと思ってたことのひとつとして、この春、布団を作った。

作ったと言っても、大人用の布団からのリサイズして、子どものものへ。保育園通いが始まった息子のお昼寝用布団。ずっと手が動かなくてギリギリに焦って取り掛かったので、半ば強引にお布団を規定のサイズ+5cmでざくざくカットして、まち針、しつけ縫い、ミシンでえいやと縫い合わせた。どうせ上からシーツをかけるから、そこまで丁寧に処理はいいかなと、端のほつれ防止は簡単にピンキングはさみで切るのはどうかしらと思いつく。家にある祖母の遺したたくさんの洋裁道具入れの中を探したけれど見つからず、ご近所の手芸好きのおばあちゃん、Iさんに持ってないか聞くためにと家を出た。

「そんなハイカラなもん持ってしまへん」とIさんは笑って、何を作ってるんや? と聞いた。これは何か面白いことが起きるかも、と慌てて取りに戻った布団(の出来損ない)を見て、「綴じ教えたろか」とIさんはクールに言った。布団はもちろん作ったことがあるらしい。見たことのない手捌きで、中綿の動きをしっかり止める綴じがひとつ出来上がった。60年以上も昔、高校卒業後に週六日通った花嫁修行の習い事で習得したらしい。「最初に、自分が座るおざぶ(座布団)から作らされたえ」とのこと。

どうですか。この立派な綴じ。ひとつ出来ただけで、見違えるように布団もどきは格好良くなった。凹凸もいいし、綿を止める機能も素晴らしい。これが、リズミカルな手つきで次々に作られた。私は少し習ったけど、全くできるようにならなくて、横で糸通しと玉留めの助手に徹した。和裁用の糸や針は、少しの違いだけど、慣れない道具という感じがした。

全部で30箇所ぐらい、生まれも育ちも京都、西陣の和裁職人に綴じを施してもらった小さな布団は、それはそれは格好良くて、これで息子が毎日お昼寝をするようになるのかと思うとうんと誇らしい気持ちになった。念のため、参考にとアカチャ○ホンポで見た「お昼寝布団5点セット ¥2,980」にしなくて本当によかった。綿花から育てる、というのはまたいつか。

すごく安く、何でも手に入ってしまう今の状況は絶対なにかおかしいと、感覚だけを頼りにしても、嫌な感じがじんわり纏わりつく。すごく安く、こんな程度でいいか、という質感や企業、制作者の意図が透けて見えるモノに囲まれて過ごすことが、じわじわと人の尊厳や健康を損ねている気がしてならない。人新世の環境については言わずもがな。保育園準備とか出産準備とか、もの一式を揃えるという行為もすごく苦手だけど、初めてのことに動揺しても、流通業者やそれを良かれと取り巻くメディアのやさしい誘導には乗ってやらないぞ、と小さな世直しの気持ちでそういうことを考えている。

・お庭お直し

そもそも私は、何かっちゃあお直し世直しに関連づけて考えているので、お直しが必要な「手入れが行き届いてない」という表現は、だいたい何事にも当てはまるなと感じている。庭はその代表格かもしれない。家族で引き受けた町家改修の現場に、京都らしい小さな坪庭があったので、手始めに草取りから取り掛かった。

どのくらいの期間空き家だったかは知らないが、手をかける、主人を失った庭はこんなにも荒れ狂うのかと驚いた。すごく背の高い草が生い茂っていて、夏に放置された庭、という感じがした。私の祖父は昨年の春に亡くなったのだけど、不在になって始めて、実は祖父が庭の手入れをすごくしていたことに気がついた。植物を愛でる様を語ったり、パチパチ剪定をしたりということはなかったが(そういうのは祖母の係だったように思う)都度、落ち葉を拾ったり、雑草を取ったり、そういう積み重ねに寄って、あの庭は苔が絨毯みたいに一面に生えていてああも綺麗だったんだと、祖父が入院して始めて気づくことができた。

これは、草取りをして半年後の様子。ドクダミやタンポポ、ポピーといった春の草花が顔を覗かせ始めた。雑草(という言葉はあまり好きではないが)にも季節があって楽しい、ということに、気づいてからの人生は本当に楽しい。現在ここは改修の資材置き場だが、内部が落ち着いたらもう少し手を入れたいと思う。乞うご期待。

***

どうだろう。あんまりにも久しぶりで、それから今、何を話そうかも迷ったけど、最後にひとこと。アパートメントでこの「お直しカフェ」を書かせてもらえることは、私の生活や人生の中でとても有り難く、幸運なことだなと感じています。例えば、初めての子育てでどんなに自分の時間がなくなっても、いつでもここに戻って来られると思えることは、お守りみたいに大事なことでした。ここは私にとって大切な場所です。書き手として、住人として、どういう手入れをしていけばいいか、手を動かしながら考えていけたらとも思っています。

ではまた来月。

はしもと さゆり

はしもと さゆり

お直しデザイナー。企画と広報、ときどきカフェ店員。落ちているものとお直し、マッサージとマイケルジャクソンが好き。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

”すごく安く、何でも手に入ってしまう今の状況は絶対なにかおかしいと、感覚だけを頼りにしても、嫌な感じがじんわり纏わりつく。すごく安く、こんな程度でいいか、という質感や企業、制作者の意図が透けて見えるモノに囲まれて過ごすことが、じわじわと人の尊厳や健康を損ねている気がしてならない。”

いやぁ、痺れた。この一文を読んで、自分がずっとずっと感じていた、ある感覚に気付かされた。そう、わたしは企業の思惑や、不自然な安さ、こんな程度でいいかという質感がものすごく嫌だったのだってこと。「みんなこれを着ているから安心」「今はこれが流行っているからマスト」そういう感覚でつくられる、よそさんが勝手につけた賞味期限付きのもの。それに自分を当てはめるのも、それにすがるのも、本当に嫌だったのだ。それが自分の尊厳や健康を損ねていると、私にははっきり言えなかった。でも、その通りなのだ!そういうことで、わたしはわたしとしての尊厳を維持できないと感じていたし、それに合わせないと、という変なプレッシャーで体調を崩したりしてきていた。(悲しいかな、安いものをつくるために、犠牲になっている原材料を作る人、それを加工する人、それを運搬する人、それを売る人などの尊厳や健康も損ねてしまっているの…これって、一体誰が得してるんだろう、って思わずにはいられない。)

そういうサイクルに加担したくなくて、服は自分で作るようになったし、似合わなくなった服はリメイクや、リサイクルして別のものに作り変えたりするようになった。すぐにゴミ箱には捨てたくない。不要なものは買いたくない。わたしが会ったこともないはしもとさんに、戦友のような気持ちを抱いているのは多分、わたしたちの間にある、現代社会の消費の在り方に対する抵抗ゆえなのかなと思う。

また、はしもとさんのあたたかくて、力強いたたかいの記録を追うことができること、それがわたしにはとても嬉しく思う。わたしも自分なりに、そのたたかいに併走していきたい。

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