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お直しカフェ (21) ドクダミ茶作りとグランマ・モーゼス

お直しカフェ

暑いような、まだそこまででもないような。アイスコーヒーが美味しい季節になった。私は春先を過ぎると、だいたいお店やコンビニでコーヒーのH/Iが選べるとき、条件反射的に「アイスで」と頼んでしまう。少し暖かくなって今年もそんな季節が来たなという嬉しさと、氷の入ったグラスでカランカランとやってくる小さな贅沢感、アイスの方がハズレのコーヒーに当たる確率が低いから、云々。という訳で、アイスコーヒーは今年既に飲み慣れた口になっていたが、ついさっき、先シーズンぶりにそれを家で淹れて飲んだら「アレ!?美味い…」となって驚いた。普段は意識していないが、やはり私の中にはカフェ店員として取得した技術や勘が多分に残っていて、ランチタイム用に大量に作り置きしたそれや、紙パックに入って業務用と書かれて売られているやつ(結構好き)、はたまた、まだ慣れない、ストローを無くしたカップで売られる様になったコンビニのそれよりは、当たり前に美味しいアイスコーヒーを自分で作って飲むことができる。「一杯ごとに注文が入ってからお作りします」とか「ハンドドリップで抽出」とか、言う訳もないけど当然やってる。

美味しい、というのは、私にとって美味しい、という意味だ。バリスタでもなければ、コーヒー狂でもないけれど、コーヒーや喫茶に関しては、おそらくそこそこ高い解像度で接している。好みや予算、手間隙を自分でコントロールできる。そういう物事を生活の中で増やして行きたい。

(ちなみにこれは大阪、吹田の名店「コッペル」でいただいた珈琲のプロによる一杯)

お直しもまさに私にとって、被服に対する勘どころ、理解の入口となっているものだ。初めは、靴下に空いた小さい穴をどうやって埋めようかに腐心していたが、その対象がシャツやパンツにも広がって、当て布しようかなとか、アレここはいっそこのパーツを取り外して新しい布で作り直した方がいいんじゃないかなとか、染め直そうとか柄付けしようとか、服作りを分解して考えるような、そういう思考が働くようになった気がしてる。

これは、お下がりで頂いた息子用100cmのシャツのビフォー(下)とアフター(上)おそらく何年も前のモデルなので、襟がない方が今っぽいかなとか、中性な彼に似合うかなとか。そもそもスタンドカラーのシャツが好きなので、このリメイクは時々やる。それだって初めて自分で襟を外せることに気づいた時は、I made it! やってやった! と小さくガッツポーズした。襟のパーツを外してそこを綴じるだけでスタンドカラーのシャツか! とやっぱり驚いた。些細なことでも自分で見つけるのは楽しい。被服科出身の人なら当たり前すぎると思うけど、私は直しながら分解しながら、作ることを噛み砕いて少しずつ理解している。服を着ること、手に入れることについてもそうだ。それからこれが、私がお直しを人にも勧める理由でもある。

先月も紹介した現場の庭でドクダミが最盛期を迎えた。ドクダミの最盛期とはたぶん、花が咲いて葉の緑が美しい梅雨時期のそれを指すと思う。5年ぐらい前から、なぜか最盛期にだけ目につくドクダミを見つけると、少し拝借してお茶を作るようになった。「ドクダミ、ハブ茶、プーアル」のあれ。単体で飲んでも案外にお茶で、独特の苦味と旨味がある。我が家では、番茶と混ぜて淹れて、冷やして飲むことが多い。

ひとしきり収穫して、家の前で竹ザルに広げて干していたら、ご近所のHさんから「十薬やったらうちの庭にもあるえ」と声をかけられた。こちらでは、十薬(ジュウヤク)と呼ぶ方が一般的らしい。そう言ってHさんは自宅からすぐの工場の裏庭まで私を連れて行ってくれた。「ここにあるの全部取りよし」と、根っこごと採ることを勧められる。根にこそエキスが詰まってるらしい。するとそこに同じくHさんの裏庭で毎年ドクダミ採取をしているMさん登場。紐の縛り方、干し方を習う。1週間から10日乾かしたあと、Mさんは刻んで煎じる、Hさんは刻んで更に炒ってお茶にするらしい。それぞれのやり方。香ばしさが違うのかな。ちなみにMさんは、お嫁に来た時からジュウヤク飲むようにと言われたらしい。以来、何十年も梅雨は毎年ドクダミ仕事を欠かしていない。たくさん作ったあと、娘にも持たせて、孫にも飲ませているとか。「この時期から飲み始めたら汗疹知らずやで」とMさんのお父さん(夫)があとで教えてくれた。

麻紐が見当たらなくてアクリル毛糸を代用。これを機にロープワーク、もやい結びを特訓した。

収穫に1時間、洗うのに15分ぐらい、干すための紐を縛るのに1時間で、そこから待つこと1週間から10日。下ろして、刻んで、炒るの、どれくらいかかってるだろう。幸い、種まきや定植、草取り、水やりの必要はなかったが。たかだか、と表現されてしまうかもしれない、お茶を飲むまでに、この手間暇を引き受けられる人はどのくらいいるんだろうとぼんやり考える。大きなザルいっぱい、結構たっぷり採ったなと思った1時間の収穫じゃ、全部どうぞと言われた裏庭のたぶん5%ぐらいしか採取してなくて、この梅雨、時間の許す限り、ドクダミ茶作りに励んでみようかななんて呑気なことを考えている。でも呑気にしていたら、だんだんと茶色い花(正確には花みたいに見える葉)が増えてきて、タイムリミットが迫ってきているのをひしひしと感じる。それで、誰かに会うたび、よかったら一緒にどうですか、と声をかけている。私がお茶作りに躍起になるのは、コーヒーの代替物を探している節もある。

さいごに。先日、大阪の天王寺まで、グランマ・モーゼス展を見に行った。気付けばひとりで電車に乗って遠出をするのは2年ぶり。のびのびと繊細に、祈りをこめるように描かれた彼女の絵の数々をやさしいキュレーションと共に見ることができて、それはそれは幸せなひとときだった。特に好きだったのが、1951年に描かれた「Talking in Laundry (洗濯物をとり込む)」庭一面にはためく洗濯物、すぐそこまでやってきている雷雨、のんびりムードの人々という一作だ。どういう訳だか、私は洗濯物が干されている様子を見るのが本当に好きだ。どんなに時短でも、全自動と呼ばれる洗濯機でスイッチひとつ、乾燥まで電気でまかなうのには賛成できない。空を見ながら、太陽や風の力を借りて、衣服を清潔に手入れする。それが気持ちいい。梅雨の晴れ間なら尚のこと。「どんな仕事でも、幸せを増やしてくれるものです」とモーゼス婆ちゃんは言った。

ドクダミ茶をこの手で作りながら、私は彼女が懐古し表現した人々の仕事や土地との連帯を追体験しようとしているのかもしれない。干して刻んだドクダミを水1.5Lに対して5g-10gぐらい。番茶を足したりもする。これを沸騰させて2-3分ぐらい煮出して、ヤカン一杯のお茶を毎日作る。蒸し暑くなってきて、この量を一日で飲み切ってしまうのだけど、作るのも毎日だと結構手間で、つい抜けてしまうこともある。そうすると小さな息子含め、家族みんなが飲み物難民になる。あわや脱水。最近つくづく実感する、生活って重労働で大変だ。だけど面白い。降りられない。技術や勘をもっと磨いていきたい。

Life is what we makes it, always has been, always will be.
– Anna Mary Robertson Moses

P.S. グランマ・モーゼス展は、このあと全国4箇所をまわる予定だよ。(ここを見ている人が多そうな)東京は、年末頃から世田谷美術館にて。お楽しみに!

はしもと さゆり

はしもと さゆり

お直しデザイナー。企画と広報、ときどきカフェ店員。落ちているものとお直し、マッサージとマイケルジャクソンが好き。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

わたしの亡くなった祖母のことを、思い出す連載だった。家のまわりに自生していた、ありとあらゆるハーブを収穫しては、ハーブティーを作っていた祖母。亡くなって3年になるけれど、ドクダミ茶が作られるまでの物語に、祖母の気配を感じずにはいられなかった。

HさんやMさんがはしもとさんのもとに現れて、ドクダミ茶をつくるための紐の縛り方や干し方を伝授していく。そこに、わたしは生きることの本質のようなものを見てしまう。人間は、多分、はるか昔から口伝によって、さまざまな知恵を人から人へと伝えてきた。こうやるといいよ、という親切心は、言い換えれば伝えていきたいという善意なんだろう。

なにより胸を打たれるのは、はしもとさんの教わる姿勢。人生の先輩たちの知恵を、きちんと受け止め、自分のものにしていくということは実はなかなかに難しい。さまざまなことをまっさらに教えてもらっている風景が、目の前で繰り広げられているような感覚がする、その才能、真似したい。

「どんな仕事でも、幸せを増やしてくれるものです」という、モーゼス婆ちゃんの言葉を引用していたけれど、それはそのままHさんやMさんの言葉であり、亡くなった私の祖母の言葉であり、このさきはしもとさんが伝えていく言葉なのだなって、なんだか感動したりして。

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