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わたしたちは死にたさを持って

鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと

死にたさはとつぜん訪れる。自分が能動的に「死にたい」と望むというより、雨や落石のように、「死にたさ」という形のあるものが否応なく降ってくるような感覚だ。大人になって多少受け身をとるのがうまくなったりしたかもしれないけれど、とはいえいっぺん来てしまうともうどうしようもない。しばらくのあいだは重たい死の引力と、「でも、確か死なない方がいいらしい」という心もとない憶測とのあいだでのたうつことになる。

原因がある死にたさはもちろんやっかいだが、とくに大きなきっかけのない死にたさもそれはそれでめんどうで、セルフケアをしようにもどこに手をつけたらいいのかがわからない。人にも助けをもとめづらい。事前に「あっ、いまは体調をくずしているな」とか「あっ、このところしんどい話ばかり聞きすぎているな」とか気がついていれば予防ができるかもしれないけれど、死にたさはたいていそんな暇を与えない速度でやってくる。そうなるともう、自分は不定期に死にたくなるものとして割り切り、一回一回の死にたさを出たとこ勝負でやりすごしていくしかない。それもあくまで「死なないためには」という話であって、いざ死にたくなるとそんな気概もたやすく失われてしまう。

なので、死にたいと気がついた瞬間、あっ、しまった、と思った。しばらくご無沙汰だったのに、なんという不覚! いまもそうだがそのころも確か悲しいニュースの頻発があって、それを無防備に見すぎたのがよくなかった(余談だが、悲しいニュースとそのリアクションに対して無防備になる、という点でSNSは最悪なので、すこしでも死にたさの影を感じたらまずはSNSを断ったほうがよかった。いまはちょっと断ち気味にしている)。

だが、しょぼい喫茶店の担当日は曜日で決まっていたので、わたしの具合がどうあろうと木曜には店に立つ日がやってくる。いつものちょうしでおしゃべりをしたり話を聞いたりはとてもできなそうだ。けれども、そこで死にたさを隠してなんてことないような顔でカウンターに立つのは、ちょっとちがう。死にたさを隠さなければいけない状況は、ときに死にたい人を死にいたらしめる。だからしょぼ喫に立つときにはできるだけどんな人も死にたいままでいられる場を開こうとしてきたつもりだった。なのに自分ばかりが元気であるように装ってお客さんの前に出るのは、不誠実というか、芯のない選択ではないか。

ということで、半ばやむなく、その日のしょぼい喫茶店を「希死念慮カフェ」とした。今日の店員は死にたさ=希死念慮を抱えていますがそれでもよければどうぞ、というだけのなめたコンセプトだ。死にたさとしぶとく付きあうことを提案するために、それ以前にまずわたし自身が自分の死にたさとうまく付きあっていくために、死にたさをイベント化して、見せものにする。できるだけ内省的にならず、無責任に。そのためわざと「希死念慮『記念』」などと銘打ち、雨ごいのお祭りのようなノリでかまえた。わたしは人目にさらされるのがわりに平気なほうなので、自分自身を「死にたい人」として展示するような意識だった。希死念慮のサファリパーク。

自分でコンセプトを決めておきながら、そこで死にたい自分がどうふるまうかは想像がつかなかった。まったく元気が出ないかもしれないし、逆にいざ人と会えば全く普段と変わらずに過ごせるかもしれない。どちらにせよ、お客さんにわたしが死にたいことをバラしている以上、「死にたいことを隠さなくていい」というメッセージは発せられるのではないか、というのがねらいだった。明るくふるまっている人がじつは死にたいなんていうことはいくらでもありえるし、それはそれとして人前でどうしてもいつも通りには過ごせない日があってもいいのだ。それを、まずはじぶんが実践したかった。

夜営業を開店してすぐ、あれっ、今日はちょっと様相がちがうな、と思う。ふだんなら、早い時間に来る人は多くてもひとりかふたりで、日が落ちたころに仕事や学校帰りの人がぽつぽつ集まりはじめる。それが、開店するなりつぎつぎにお客さんがあらわれ、店内は見る間に混雑した。よく見る顔も、久しぶりの人も、はじめての人もいた。みな揚々と晴れやかで、口をそろえていう。

「いやー、希死念慮カフェなんて言われたら来ないとね!」

あらそうですかなんていって聞きながしていたが、あまりにみんながそういうので不審に思いはじめる。そうこうしているあいだも人足は途絶えず、とっくに満席を超えているのに人がぎゅうぎゅう詰めになって居つづけ、しまいには喫茶店なのに立ち見席ができた。おかしい、日ごろあんなに楽しい企画を考えてやっている(?)のに、死にたい人間を見物するだけの地味な企画にこんなに人が押し寄せるのはおかしい。ワンオペレーションなのでオーダーに目をまわしつつ、わたしは混乱していた。もう、自分がどうふるまうかなんて二の次三の次で、まずは洗いものをこなさなくては。来る人来る人陽気なのもおかしい。わたしが死にたいと明らかにしたために心配して来てくれているのか? という希望的観測(?)も一時頭をよぎったが、それにしてはみんなおしゃべりに対してやたらに前向きで、お客さん同士でつねに会話がはじけている。

つまりはこうだ。わたしは、「希死念慮(を持った人が立っている)カフェ」くらいの気持ちでいたのを、お客さんたちはみんな「希死念慮(を持った人が集まれる)カフェ」と受け取っていたらしい。

そう思うと、「いやー、希死念慮カフェなんて言われたら来ないとね!」にも納得がいく。希死念慮カフェに来たお客さんの多くは、「死にたい人、つまりは自分だ」と思って、呼ばれたように来てくれたのだ。だからふだんのお客さんよりも物怖じせず、また初対面のお客さん同士でも親近感を持てたのだろう。わたしの意図しないところで、希死念慮カフェは「死にたさ」という手広い当事者性に拠った場となっていた。

いや、しかし、ちょっと手広すぎる。お客さんがつねにあふれかえっているおかげで、わたしは喫茶店の業務に追われ、だれとも話すひまがない。程度や頻度の差を勘定に入れなければ、死にたさはこんなにも多くの人の問題なのだ、ということをひたすらに実感する時間だった。死にたいといえば自分だ、自分がこの場に呼ばれた、という気持ちで、こんなにたくさんの人が集まってきてくれたのだ。じーんとうれしくもあり、また力の抜けるようなおかしさもある。

でも、ときどき、お客さん同士の会話の輪から外れた場所からなにかを語りたそうにしている人もいて、その人に話しかけられないのは本当に口惜しかった。だから、多少は程度や頻度の差を勘定に入れて何人かの話だけでも聞きたかった気もするけれど、しかし他人のしんどさを他人が測って序列をつけるわけにはいかないし……。

狂騒状態は閉店時間までつづき、わたしはほとんど目のなかで星がまわっているような状態でお客さんを見送った。何人かのお客さんが帰り際に「あれ、そういえばくじらさんは大丈夫だったんですか?」と声をかけてくれるのがおかしかった。「いやー、なんかもう忙しすぎてわからなくなりましたね!」と、わりに元気よく答えた。忙しかったなりの売り上げがあったからか、それともわたしのようすがあまりにくたびれて見えたのか、レジを締めた店長さんがわたしのぶんの売り上げを手渡しながら「売り上げは鬱に効きますから……」と声をかけてくれた。

死にたさや自死について考えるとき、この日の狂騒のことを思う。死にたさは全員の問題なのではないかとさえ考えたくなる。でも実際には、自死のニュースが報道されるたび、死にたいなんて一切思ったことのないような言説が並び、それがいちばん読んでいてしんどい。誰にも言わずに死にたいと思っていた自分やだれかはこのように見放されてきて、そしてもしかしたらこれからこのように見放されていくのだ、という気分になる。ではやっぱり死にたい人は少数で、理解されづらい存在なのか。

それにしてもあの陽気さはなんだったのだろう。当事者性に拠った場だったと書いたが、わたしは基本的にはそういう場のことが苦手で、自分でも開こうとはよう思わない。だから、(結果的には失敗したとはいえ)「希死念慮カフェ」はさっぱりとサファリパーク形式にしようと思ったわけだし、「死にたい人が集まる場」といわれたらわたしは行けないだろう。わたしはたしかにそのとき死にたいかもしれないけれど、「死にたい人」として暮らしているわけではない。「死にたい人」ではないぶぶんのわたしを度外視されるようなのが、また自分もそこで出会った人の「死にたい人」ではないぶぶんを度外視してしまいそうなのが、なんとなくいやなのだ。

もしかすると、やたら明るく「希死念慮カフェ」に集まってきた人たちもそうなのではないか、と疑っている。じつは、彼らはほとんど死にたさについては話さなかった。あいさつがわりに「いや〜死にたいっすよね〜」とか軽く言いあっていたくらいで、ほとんどは仕事や趣味や生活の話をしていた。彼らは「死にたいと思ったことがある人」くらいの軽い感覚で呼ばれて来ていて、そのとき死にたいかどうかとか、なぜ死にたいのかとか、そんなことにはべつに興味がないようだった。

ここからは憶測になるけれど、場がそんなふうになったのは、「希死念慮カフェ」というわたしがいいかげんにつけたタイトルが、たまたま死にたさを外側にあるもののように扱っていたからではないか。「死にたい人」ではなくて、「死にたさ」。死にたさはその人の中から出てくるのではなく、どこか外側からどうしようもなくやってくる。そういう感覚でいると、なんとなく死にたさに対して無責任になり、また他人との共通項としても扱いやすくなる。べつにいま死にたくなくても、死にたさのことを知ってさえいれば、それでいい。そういってもらったほうが覚えのある人も増えるだろう(そのせいであの異様な動員だったのではないか)。そういう気やすさが希死念慮カフェにはあったような気がする。

これはいいかもしれない。「死にたい人」はいなくて、死にたさがあるだけ。死にたさはきっと誰にでも偶発するから、やっぱり全員の問題かもしれない。そういうかまえ方が、死にたさを持った人どうしを、もしくはそういう人とまだ死にたさを知らない人とを、より互いに語りやすくするのではないか。死にたさについてでなくてもかまわない、ただばかみたいに陽気に話して、息をたくさん吸ったり吐いたりしやすくするのではないか。希死念慮カフェで揉まれるほど忙しい思いをし、そしてきょうも致死的に悲しいニュースの中にいるわたしからの提案である。

向坂 くじら

向坂 くじら

詩人です ときどき舞台や喫茶店のカウンターにも立ちます

Reviewed by
清水 健太

「死にたさ」と「死にたい人」は、似ているけれど真逆を向いている。
自分ではなく、自分にまつわる何かについて語ることの方が、うん、やっぱり気持ちが楽だと思う。
自己紹介をするときのしんどさを思い出した。
そして同時に、向坂さんが声をかけたかった「輪から外れた人」のことがやっぱり強く心に残った。

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