クリームたい焼き幻滅の法則

いとでんわ 第2期(2011年12月-2012年1月)

所詮、カスタードクリーム入りのたい焼きは邪道であって、どんだけ頑張っても餡の代用品でしかない。(中にはクリーム入りの方が好きな御方もいるだろうし、もちろんそれはこの限りではない)例えばあなたがつぶ餡にしろこし餡にしろ餡が本命であると判りながら、ときに浮気心が首をもたげ、ついついクリーム入りを買ってしまったとする。ひと口食べてあなたは後悔するのだ。「嗚呼、もう二度とほろほろと温かく香ばしいあの愛しき餡を裏切るまい…」そうしてハンケチを噛みしめながら、あなたはクリームの入っていない尻尾の部分に餡の風味をフラッシュバックさせる。これを仮に“クリームたい焼き幻滅の法則”と呼ぼう。(←長いよ…)

渡る世間にはこの哀しき現象が溢れていて、わたしたちをときに後悔の海へといざなう。「ホンマは少女時代のCDが欲しかったのに、興味本位で諸星和己が吉幾三歌ったシングル買ってもうた…」とか、「天下一品のこってりスープが目当てやったのに、ついついオッシャレなつけ麺屋で噺家でもないのにエアスープ啜る羽目に…」などなど。まぁこれくらいの間違いなら一日経てばノー問題だが、ときに人間はどうしようもない過ちを犯してしまう。しかし、よくよく考えたら人間はこういう過ちに身悶えしながら代用のできない本命を愛したいのかもしれぬ。

わたし自身を例に出すと、方向音痴のため道に迷うことが多いのだが、こちらが八割がた正しいと思った道を行かず、だいたい別の二割の道を選んで突き進んでしまう。そうしてしばらく歩いて「あは。やっぱしこの道間違っとったわ。自分の推測は正しかった!(←おバカ)」と、確認するのである。まぁ遠回りをするのは本人の自由だが、同行者がいた場合はいい迷惑である。しかしながら、この過ちを確認したくなる性はそうそう治るもんではない。

こういう類の人間はどうやら物書きに向いているようで、だいたい一歩間違えれば皆、社会不適合者。おお災難多き人生かな。過ちを犯すのは原稿の上に限るな、と。この手の人間はなぜクリームたい焼きに浮気したかをとことん分析する。それが例えどんな些細なことであっても、だ。いや、むしろ些細な失敗にポエジーを見出す。その懺悔をもとに書く。書く。書く。クリームたい焼きを買ってしまった事実がひとを成長させるかどうか、それはまた別問題なのだけれども、クリームたい焼きを買わなかったら味わえなかった切なさが、餡への愛を増幅させる。過ちを単なる過ちにしないためには、そいつを分析して過ちの輪郭を知り、線引きして囲んでしまうことだ。それはつまり、本命の輪郭をも浮き彫りにさせる。

ソフトバンクの孫正義氏はtwitterでこうつぶやいたそうな。「全ての人に分かれ道はやって来る。問題は、そこで正道を選ぶか邪道を選ぶかだ。」そうして正道と邪道を線引きしてゆくと、そのうち養殖物のたい焼きでは満足できなくなり、天然物の一本焼きでしか満足できなくなってゆく。これは明らかにこだわりである。

では「こだわる」とは何か、広辞苑で引くと、【①さわる。さしさわる。さまたげとなる。②気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。③故障を言い立てる。なんくせをつける。】と、どれもネガティヴな意味であった。一方、wikipediaでは、【拘りとは、特定の対象に、強く愛着し、離れることが出来ない状態を指す。多かれ少なかれ、人には拘りがある。】と、これもポジティヴとは言い難い。まぁ今は「こだわりの味」など、プラスの意味で使うことの方が多いようだが、これは玉石混淆の中から良い物を選別するという意味であろう。となると、本命に惹かれるのもこだわり、浮気に走るのもこだわりとなり、あらまぁ人間にはこだわりしかなくなってくるのだ。

結局、わたしのような物書きのやっていることは、「こだわらないこと」にこだわることなのかもしれない。わたしならtwitterでこうつぶやくだろう。「正道と邪道、その狭間にポエジーが存在する。」そんなわたしは今日も、クリーム入りのたい焼きを買って苦笑いをしたり、道に迷ってはほくそ笑んでいる。周囲の方には大変ご迷惑をおかけします。何ともあまのじゃくではありますが、今後ともよろしくどうぞ。

ではでは、いかにもクリームが入ってそうなクレモンティーヌの「およげ!たいやきくん」で今週はお別れします。