ルーマニア徒然 - 田舎の人達②

第21期(2015年6月-7月)

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 マレムレシュの墓地。天を突くような木造の教会が美しい。




 今年のイースター(復活祭)にはマラムラシュという北部の伝統的な暮らしの残る地域に行った。この辺りのイースターの祭りは有名で、多くの木造教会があり、言わば秘境のようなものとして有名だった。途中クルージュ・ナポカという街のホステルで出会った女の子が翌日マラムレシュの実家に帰るというので一緒に行き、その家族と過ごすことになった。娘が謎の東洋人を連れて来て「昨日会ったの」と言ってもほいほいと受け入れもてなしてくれるというのは凄いことだ。


Oameni in Maramures
 マレムレシュの人々。昼間っからビールを飲んでいる。座席は馬だ。




 彼女は中国語を専攻しており、以前浙江大学に留学していたとのこと。浙江大学は歴史も古く吉林大学に次ぐ最大規模の総合大学で、東洋のケンブリッジとも称される名門である。そこに奨学生として行っていたとのことで、確かに言葉の端々に知性が感じられる子だった。ただ彼女からは、ルーマニアの都市生活者や高学歴の人にありがちな、自国への劣等感の混じった闇雲な問題意識や田舎の自給自足的生活への軽蔑などは感じられず、晴れやかな性格の子だった。キリッとした顔付きだが、口角が上がっていて笑うと顔がほころび目が細くなって垂れ目がちになった。破顔という言葉の似合う、優しい笑顔だった。

 途中本道を逸れて彼女の実家のあるラプシュに向かう道へ進むと辺りは一面山と草原ばかりとなり、車を停めて羊飼いや羊と遊んだり、女性器窟(!)と呼ばれる小さな洞窟を掃除しているおっちゃん達と話したりしながら彼女の村に向かった。親戚の家に行って婆さんと話したり、彼女が溺愛するメキという名の黒猫や家の豚や鶏、近所の子供と遊んだり、イースターエッグ(ゆで卵に赤などの色を彩色したもの)に草の模様をつける為の草を摘みに行ったりしながら過ごした。家の裏には庭、というかただのだだっ広い土地があり、近所との境界など曖昧で、そこらを鶏や猫が好きに掛け回っている。彼女はふとしゃがみ込み草を千切ったかと思うと口に入れ、「これ美味しいんだよ」と言って葉っぱを差し出した。食べてみるとほんのり酸っぱい味がした。なんと牧歌的な世界だろうかと思った。「昔は牛もいたの。毎日井戸の水を汲んで、牛の散歩をして、横で本を読んでた。」まるで詩人のような生活だねと言うと、「いいことばかりでもないのよ。世話も大変だし、やらなきゃいけないことは沢山あったし。でも楽しかったな。のどかで。」と遠い目をした。思えば彼女は村の秀才で、学力や経済力の問題で大学に行けない子供も少なくない中、奨学金で大学に行き、奨学生として中国に留学し、時折帰ってくる、村の人にとっては羨むような「外の人」になっていたのだった。多くの場合、その引き裂きの中でアイデンティティの傷を埋めるように故郷を疎むようになるものだ。彼女にはそのような暗いものが感じられなかった。風に吹かれながら草を摘んでいる彼女の横顔はとても涼やかだった。井戸は今も使われていて、夕食時に飲むとひんやりとしてとても美味しかった。一切のケミカルや金属の味のしない、「水」の味だった。それは彼女そのもののようだった。


Mechi
 メキ。美しい黒猫だった。


Ojisan
 羊飼いのおじさん。羊を捕まえて抱かせてくれた。


Bunica
 ユリアナのお婆さん。翌日会うと”I missed you”(勿論ルーマニア語で)と言っていた。そんな馬鹿な。




 ユリアナの実家はとても簡素なもので、8畳ほどの玄関がそのまま居間でそこに調理用の薪ストーブや長椅子、小さなテーブルと流しがある。向かって右手に8畳ほどのユリアナの部屋があり、左手に10畳ほどの客間がある。客間が一番広く、調度も良いものを置いていて、戸棚にはグラスなどが飾られている。使わない部屋が一番綺麗だなんて勿体無くないのかと思ったが、自然に近所の人がやってきては客間で寛いでいたりするところを見ると、案外それで良いようだ。奥の部屋には入らなかったが物置のようだった。壁には祖母が作ったという花模様の織物が皿と共に壁に掛けられており、ブカレストの農村博物館で目にした家の作りと殆ど同じだった。外壁は青く染められており、壁は土なので中は夏は涼しく冬は暖かい。本当に、昼間も驚くほど涼しいのだ。多くのものは無いが、薪さえあれば一年中快適な家である。因みに、便所は外にあり単に木の床に穴が空いているだけである。木の扉は何枚か抜けていて夜は間から星空が見えた。澄んだ空気の中、それはとても綺麗だった。


Masa
 家には手作りのテーブル掛け等の飾りが沢山ある。




 日が沈むと一緒にイースターエッグを作った。これは一般的には単にゆで卵を赤などの色付きの湯に漬け染色するだけのものだが、この地域では葉っぱを使って模様付けをする。ゆで卵に葉っぱをうまく貼り付け、古くなったストッキングの中に慎重に入れて紐で縛る、これを幾つか繰り返し、連結されたゆで卵達を鍋の中に入れて染色する。5分ほどで取り出して乾かし、卵を取り出し葉っぱを剥がせばその部分だけが白くなっていて模様が付いているというわけだ。葉っぱの葉脈に沿って少し色付いており美しい。こういうモチーフは地域によって違うらしく、この村では鳥と葉っぱ、農業に関するモチーフがよく使われるとのこと。ストッキングが普及する前はどうしていたのと聞いたら、きっとストッキングが出来てからやるようになったのよと言っていた。ストッキングが発明した模様というわけだ。食事の後にユリアナの母が昔の写真を見せてくれた。自分が幼い頃の写真、旦那が若い頃友人とふざけあっている写真、制服姿で畏まっている写真、戦地から送られてきた写真、結婚式の写真、ユリアナと弟が伝統衣装を着ている写真。。。どれもとても古めかしく、とても良い写真だった。旦那の初恋の人の写真や自分の元恋人の写真まで大切に撮ってあるのは驚きだったが。


Oua de paste
 イースターエッグ。ストッキングに詰めるのが中々難しい。




 夜12時になると村の教会に行った。近所の人が沢山集まっていて、読経が聞こえていた。教会から神父が現れ、人々に蝋燭の火を与えた。人々は互いに火を分け与えてゆき、全ての人に火が行き渡った。風が吹いていて皆じっと火を見守りながら、教会の周りを3回回った。途中何度も火が消え、その度に僕らは火を分け合った。僕の顔を驚いたようにじっと見る人もいたが、多くの人は無関心で、ただじっと火を見つめていた。風に揺らめく火に照らされた人々の横顔はとても神秘的だった。彼らの頬を照らす蝋燭の仄かな灯りは、人種も宗教もない普遍的な願いを湛えて揺らめいていた。
 蝋燭が燃え尽きる頃、そろそろ帰ろうかと言って蝋燭を燭台の砂地に差し、教会を後にした。聞けば読経は朝の4時まで続くらしい。ユリアナの家族が厳格でなくて助かった、と思った。家に帰るとまずパスカとパスクッツァと呼ばれる神聖な食べ物を食べた。パスカはパンにワインを浸したもので、ご想像の通り食べられたものではなかった。流石にユリアナも「私これ嫌い」と言って一口しか食べなかった。母親は飲めないのにパクパク食べていた。パスクッツァはパンに卵とチーズの詰め物をしたパイのようなもので、こちらは美味だった。その後ホリンカと呼ばれるプラム酒を飲み、自前のハムや鶏などを食べた。ハムと言っても既成品のような平坦なものではなくローストビーフのような風合いで食べごたえがある。ホリンカというのはプラムの蒸留酒で、呼び方が地域によって違うのだが製法は同じで度数が違う。概ね、南から北に向かうにつれてツイカ、パリンカ、ホリンカと呼び名が変わり、度数も25度、40度、60度という風に上がっていく。ホリンカは一番危ない。ショットでキュッとやるのだが、喉がジュワーッと熱くなり徐々に腹まで降りてくる。僕はこれが案外好きなので暫し余韻を楽しむのだが、水を飲んでおかないと後で大変なことになるのが常である。ユリアナの母はパスカで酔っ払ってしまったようでぼんやりとしていた。ニコニコしながらユリアナに文句を言ったりして絡んでいる。このおばちゃんはいつもニコニコしているが、実はいつもちょこちょこと文句を言っている。その度にユリアナがお尻を叩いたり父親が冗談を言ったりしていて、見ていて喜劇のようである。父親はどの村のおっちゃんの例に漏れず飲んべえで、しきりに僕に酒を勧めてくるのだった。こういうおっちゃんというのは大体、酒を飲んでいれば仲良くなれるものである。彼女は流石に疲れていたのか早々にベッドに向かった。


Lumanare
 人々は三々五々、ろうそくを立てて帰って行く。




 翌日は大変だった。朝昨日作ったサルマーレを食べ、親戚の家に行ってまた食べ、ユリアナの昔の先生で今は友人である人(こういう感覚は我々には無い)の家に行ってまた食べ(勿論その間常にホリンカを飲んでいる)、共同墓地や修道院を見に行き、湖畔に行ってビールを飲み、家に帰って来てまた食べた。正直腹が千切れるかと思ったが、酒が食欲を増進するというのは本当で、案外食べられるものである。因みにこの地域のチョルバ(ルーマニア含めトルコやバルカン半島で広く見られる酸味のあるスープ)は油分が多く、サワークリームをふんだんに使ったこってりしたものである。寒い地域ほどそういうものなのだろう。これだけで一食になるくらいだ。その日はイースター直後の休日なので皆おめかしをして親戚の家を回り団欒していた。晴れた4月の美しい日だった。途中家に立ち戻った際にユリアナが伝統衣装を着て見せてくれた。昨晩見た写真の若き日の母の姿にとても似ていた。彼女の方が、一回り細かったが。

 夜は地元のクラブに行った。どの村にもそういう場所があるものである。若者がまだ沢山村にいるのだろう。少しずつ、若者は都市に出て行っている。西欧的な暮らしや価値観に憧れ、立身出世を目指し或いは単に大学に行く為、都市に向かうのだ。母親は定期的に食事を送る。何だか昔の日本みたいだ。ルーマニアの学生は基本的に金が無いが、同時に全く使わない。実家から送られてくるものを食べるので外では一切食べないし、食べてもドーナツやホットドッグのような惣菜は1-3レイくらいである。パンは一塊1レイだ(1レイは30円くらい)。遊ぶとしても散歩かお喋りくらいで、外食してもビールを飲むくらいだ。こう書くとまるで4畳半でキャベツ齧っての世界のようだが、彼らは楽しそうである。ルーマニア人と過ごしていると、自分が如何に消費社会に組み込まれてしまったかというのをいつも感じる。ユリアナの家には本当に必要なものしか無かった。青く塗られた壁、薪のストーブ、手作りの椅子に刺繍のテーブル掛け、、それらの物は家族の歴史そのものだった。戸棚には、今スペインにいるというユリアナの兄の幼い日の写真が飾られていた。そのカバーも何も無い色褪せた古い写真のよれた角に、家族の十数年の喜びも悲しみも幸せも、全て刻み込まれているような気がした。物は劣化するものだ。そしてそれは美しいことだ。無表情な日本の家屋に慣れてしまった自分にとって、ユリアナの家は余りにも多弁だった。

 翌日飛ぶように車を走らせクルージュ・ナポカのホステルに彼女を送り、僕は帰路についた。帰って、何だか放心状態だった。見知らぬ村の見知らぬ人達と過ごした長い夢を見ていたような感覚がした。余りに牧歌的で、余りに平和な時間だった。また訪れようと思っても、もう存在しない村のような気がした。

 だがそれが錯覚だということを証明するかの如く、その後暫く僕の腹はあの美しい井戸の水に苦しめられたのだった。


Iuliana
山奥の修道院。辺りには聖歌を歌う声が響いていた。