優しく在ることについて。

第21期(2015年6月-7月)

週一の日記なので、その時々の取り組んでいることを整理して書くよりも、
その週ごとに思ったことを書いて行きたいと思います。
文体も内容もバラバラになるでしょうが、
抽象的などろっとした言葉の連なりから、
何か片鱗を拾っていただけたらありがたいです。

さて今回は、
優しく在ることについて。

高木正勝さんの音楽がつめつめのせっかちな音の連続で、
それが総体としてあたたかい世界観を形作るように、
腰の据わった明確な意思に基づいた行動でなく、
せせこましくもあるようなこまごました心持ちや姿勢から、優しさが生まれるように思います。
個人差はありますが、身近な母のありようは優しさそのものでした。

そして、自分の母や、母になった妹を見るにつけ、
ゴミを拾うことの意味を考え、解釈を深め、覚悟を決めるより、
目についたらどんどん拾う即物的な振る舞いの方がより優しいと感じます。

本当の優しさとか、相手にとってどうかとか、加害性とかそういうことを優しさの当事者はあまり考えておらず、
どんどんおせっかいするのが優しさで、ゆえにたいていの優しさは一片の迷惑を孕むものではないでしょうか。

愛とか責任とか、面倒なことは考えないように気をつけながら、
親切過剰な振る舞いをし続けることを、優しいと定義付けすることにしました。
そして、それをし続けることで心身ともにより良い状態に進んで行けることにも気がつきました。

自分の今はここから、
覚悟にまで至らない、柔らかい気付きから始まっているように思います。

優しく在ることというか、あろうとすること。
その為に出来ることをするだけですが、
やはりどうしてもその振る舞いは世間からゆっくりはずれていきます。

ゆえに、いましていることの多くが、そもそも狂っていることです。
さまざまな方から毀誉褒貶を受けましたが、あまり気にせず真面目に取り組んでいます。
悟りはそこに至ろうとのたうちまわる過程こそが、その本質で、
悟った後のことにはあまり意味がないように考えるからです。

優しくなろうとするのでなく、
優しく在ろうと行動します。
そう在るために、のたうちまわるのです。