イメージの海で #8

第22期(2015年8月-9月)

#8 認識とイメージ

金木犀の季節だ。どこを歩いても甘い香りが漂っている。つられて昔のことを思い出しそうな気もするけれど、毎年のことなので特に何かと強く結びついているわけではないらしく、ただ初秋の集合体みたいなものがドアの向こうまで来ている気配だけを感じる。それは遠慮深いらしい。

視覚や触覚に比べて嗅覚だけを直接表す形容詞は少ないように思う。ラベンダーの香りやシナモンの香り、のといったように固有のものに付属した香りとして表されるか、味覚と一体になっていることがほとんどだ。研究によれば同じ香料が様々な割合で入った瓶を選んで当てる実験からは人間が何万種もの匂いを嗅ぎ分けていることが推測された一方、特定の香りが何のものかを当てる実験では正解率が低いなど、香りの感覚はなかなか言葉とは結びつかないという。嗅覚は原始的な感覚に近いと言われるけれど、確かに瞬間的なセンサーのようなものなのだろう。頭で考える以前に体が反応し、ざっくりと「良い香り」「臭い匂い」に分けている。生理的にナシ、これは腐っているらしい、ツンとして官能的、なぜか好ましい、等。

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言葉にする以前の、受容されたナマの感覚は渾然一体となった泉のようなもので、常に形を変え続ける。それをある一点で言葉の網でとらえて掬いあげ、空気に触れて乾燥させることでそれは固定され、安定した状態になる。感覚は言葉によって現像されるとも言える。安定させてはじめて、再び自分の経験として取り込み他者と交換することができるようになるのだ。このとき流動体は言葉の網目に合わせた形で粒となって固まるため、細かければ細かいほど繊細な粒として掬いとることができる。水仕事をする人の手に皺が刻まれていくように、感覚という水にひたす言葉の手にも、使い込むほどたくさんのひだが刻まれていく。
例えば、特に寒い地方の方言や北方の民族の言葉には寒さを表す形容詞が多くある。一括りに寒さと言ってしまうところに対して「芯から凍り付くような」「痛みを伴うような」「ひんやりとした」「肌寒い」など様々な言葉を使い分けている。そのように、特定の形容詞の目盛りの細かさによって、その言葉を使う人たちの興味関心やその感度の高さを測ることができる。当たり前のことだが、一番良く形容詞を思いつくことが、誰かに一番伝えたいことなのだ。

受容されたナマの感覚というのはデータとしては情報量が多すぎて重いため、それを記憶し再生するためには変換して圧縮する必要があるが、その方法は各々の脳が最もやりやすい方法を選択しているらしく人によって顕著に異なる点が面白い。文字、映像、写真、音。読んだ本を思い出すとき、本の内容のイメージが映像で再生される人、頭の中で読み上げる音が聞こえる人、全体の構成や結論が先に出てくる人、またページの画像がキャプチャされていて、任意の場所を拡大して読むという人など様々だ。当然向き不向きがあって、顔は出てきても名前が覚えられないという話はよく聞かれるし、そのとき着ていた服や天気まで覚えていても、時系列が混乱していたりする人もいる。

認識と記憶の個人差はいつも多くの関心を集めてきた。特に色に関してはたまにトピックとして取り上げられ、私たちが普段いかに同じものを見て異なる感じ方をしているかが明るみに出る。人によって青・黒か白・金か見え方が異なるワンピースの画像が一時騒然となったことは記憶に新しい。補色関係にあるため、見ている色から受ける印象はずいぶん変わってくる。錯覚の仕組みの不思議さもさることながら、「通常の」色覚を持っていると思われていた隣人でも受け取り方がこんなにも違うことに改めて気づかされ、多くの人が困惑と興味を抱いたのではないだろうか。その反響の大きさの裏には、他者との断絶と、いかにそこを渡るかという根源的な問題がある。

認識は同じようにしていたとしても、実感が全く伴わないという場合もある。離人症においては精神が混乱しているわけでなく外面的には何の変化もないにも関わらず、感覚が鈍り何もかもが生き生きと感じられなってしまう。受け入れられない環境から心を守るためか、自分を現実から解離させたためすべての存在感がどこかへ行ってしまい、目の前には現実感のない、舞台の書き割りのような風景が広がっているばかりである。それぞれの感覚に色を与えて区切っていた言葉の仕切りが消えていき、形容できなくなる。鉄のものを見ても重そうに感じず、紙のものを見ても軽そうだと思わない。受容はするけれど、そこに意味や質感を与えられない。火の熱さ、水の冷たさ、美しいと思うこと、心が動くことが遠のいていく世界。そのような、イメージの実感の欠如に苦しみながら生きる人も少なからずいる。

そのような状態からどうやって喪われたイメージを再獲得していくことができるだろう。形容詞の豊かな世界に帰ってくるには。
「共感覚」とは違う「共通感覚」という理論があるが、そのようにナマの感覚に立ち返ることが必要になってくるのかもしれない。離人症ほど極端でなくとも、現代において現実感を失いつつある私たちは皆、感覚器官の長い長いリハビリの中にある。この連載を通して問い続けてきたように、五感を通して得られるイメージを言葉や身体を使って咀嚼しなおすことも、時には必要なのかもしれない。