痛いと泣けば立ち上がれず、痛くないと呟けば歩き出せた。

第22期(2015年8月-9月)

車に撥ねられたが「大丈夫です」と言って起き上がり、カゴが凹んだ自転車を引いて帰ったのは10歳の夏だ。一人だった。


そう実は私、人間ではありません。

という話ではない。思うに、そのとき母や友人がそばにいたら大声で泣いたのだ。手を差し伸べられるまで地べたに倒れたまま立ち上がらず「車にぶつかった」という状況に合わせた悲惨さを、体感以上に体現したはずだ。
声に出すと、感情と感覚が増幅する。締め切り前など、焦燥で気が乱れている時は特に一人で過ごす方が良い。「ああ!間に合わない!」「もう!どうしてこうなるの!?」という気持ちを、他者がいるとつい声に発してぶつけてしまう。そんな中、更に紅茶の缶をひっくり返したならばどうなるか。一人きり。溜め息一つ漏らし、諦めた笑みを浮かべながら静かに茶葉を拾い集める。理不尽に誰かを怒鳴っても、何かを責め立てても、心臓の音がどんどん高鳴るばかりで鳥肌が立つほど苛立ってしまう。

自分が片付けなければ仕方のないことが空間に散らばっているなら、沈黙の中で片付けるに限る。


一人きりの空間で、自分の泣き叫ぶ声を聞いたことがない。鼻の奥がジンとして、それから静かに溢れる涙を止められなかったことはあっても、まるで誰かに訴えるように喉をヒリつかせながら感情を露にしたことが無い。自分の心のメカニズムを知ってから、悲しい日は一人で閉じ篭るようになった。感情を八畳一間に閉じ込め、少しずつ小さくしていく。それからなんとなく楽しい楽しいと外へ繰り出せば、悲しみの治療は完了する。

近所に響き渡る子どものような泣き声で、誰かの抱擁の中一頻り泣けることとはまた別の話。


マフラーを巻いてコートを羽織り「寒い寒い」と友人たちと身を寄せ、全身の筋肉をギュッと強ばらせて歩いていたある日、ふと「いや、寒くない」と逆の言葉を発してみた。マフラーを外し、縮めていた首を持ち上げ、背筋を伸ばして全身の力を少し緩めて歩いてみる。もちろん暖かくなったわけではない。けれど、寒い寒いと喚いているより、ずっと楽になることがわかった。

瞬発力は無くても、自分の唱える言葉はやがて行動原理となっていく。言い争いの末、私を道に一人置き去りにした背中を睨みながら「いいか、私は、あの人を、忘れるんだ。今から。」そう呟いた夜を覚えている。相手に伝える音量ではなく、自分に言い聞かせる音として耳に届き、情景までもが鮮明に心に刻まれた。涙で滲んだ赤信号がずっと、道路の奥の奥まで続いていた。その時すぐに変われない自分が悔しかったはずだ。けれど今、私はその時の私じゃない。
私が自分自身に向かって放つ呪文は情景と共に反芻され、とてつもない引力で私を導いていく。

最悪な状況に陥ると、錯乱と動揺で体が緊張し、使いものにならないほど手が震えたりする。「大丈夫だから。どうにかなるから。」と空中に向かって声を発し、更にその声に対して続けて「はい」と返事をする。すると、解決に向けて次に何をすべきかということに頭を切り替えることが出来る。その光景は、客観視すると少し気が違ったようにも見えるかもしれない。「ダメだダメだと言っていたら必ずダメになってしまう」「大丈夫大丈夫と言っていたら絶対大丈夫になる」という、単純なメカニズムはもちろん存在しない。しかし、自らを奮い立たせるということはまず、自分自身を味方につけるということから始めなければならない。

自分の声援を、自分の耳で受け取り、自分の心に響かせるのだ。


「夏が終わってしまうね」そう呟いてみたところで、使い古された歌詞のフレーズを真似てしまった時のような恥ずかしさがある。今日で8月が終わろうと、夏が終わろうと、この作品にはあと10日ほどかけたい。
今、私はマイペースを許されている。それ以上に「人生の豊かさ」と呼べるものがあるだろうか。終わっていくシーンに浸らず、流れる背景にも目をくれず、自分の刻むリズムに合わせて歌って踊る舞台に立っている。

焦燥も安寧も筋書きは、全て私の手の中にある。

小林舞香