飽きたけれど、愛している。

第22期(2015年8月-9月)

夏を忘れられないという顔をしていたくせに、知らぬ間に秋の空は熱を失っている。


「こんな感じの景色は、そのうち飽きると思うよ」と言われて1ヶ月半ほど経った。飽きてしまったわけでは決して無いのだけれど、道中広がる草原一つ一つに立ち止まり感嘆すること、遭遇した野生のリスやうさぎをいちいち追いかけること、白鳥一羽を一時間以上かけて丹念に撮影することは、やはりもうやめてしまったかもしれない。

誰かの私に向けた視線が好奇心に満ちていることに気付いた刹那、その胸の高まりと未知なる輝きが即座に失われることも知っている。何を考えているかわからないミステリアスな雰囲気を纏ってみたところで、単に何も考えていない阿呆だとすぐに見破られるだろうし、私自身の作品の傾向から「他の人が見えていないものが見えているんじゃないか」と特別な性質を期待されたところで、おそらく正常の視界の中で正常に生きているに過ぎないことはすぐにわかってしまうだろう。
追いかける理由がなくなったらすぐに方向転換してしまう自分のことも他人のことも、簡単過ぎてとても虚しく感じてきた。大勢が一斉に口を揃えて「楽しい」と言うものに対して斜に構える性分もそれ故かもしれない。わかり易いきらびやかなテーマパークを避け、つっこみどころ満載の寂れた遊園地を選ぶ。派手さが際立つ人物像より、騒がしい集団のはずれで静かに本を読む姿を目で追っている。焼け野原から一輪の花を探し出す感覚に惹かれる。天の邪鬼としかいいようのない物差しで「何が私を永く飽きさせないか」「何に長く情熱を傾けることが出来るか」そんな、どうしようもないことを推し量っている。


一枚の絵を完成させることが、幼少期は苦手だった。失敗したと思ったら即座にビリッとスケッチブックのページを捲って、白い新しい画用紙に描き始める。大きな余白を残して顔だけ描いてあったり片目だけ描いてあったり、完成と言える絵が一向に出来上がらないまま次々とページを捲り、丸めた紙の山が積まれていった。「失敗したら新しいものをすぐに用意すればいい」そういう考え方と向き合おうと思ったのは、木製パネルにケント紙を水張りする制作スタイルが固定してからだった。簡単に「新しいページ」を用意出来なくなった手前、失敗してもこの一枚でどうやりきるか、もしくは失敗しない為にどれくらい下準備するかを考えるようになった。

失敗してもページを破かない。ダメだと思ってもすぐ次を探さない。向いてないと感じても即座に辞めない。合わないと知るや否や離れていかない。それらは全て、訓練だ。執着は時に人を狂気へ誘うけれど、無頓着もまた過ぎれば何も手に残らない。ここまでやったのだからもっと頑張ろうか、打開策が無く立ち止まるばかりならば切り捨てて新しい展開に進むか。この人と別れようか、この企画は白紙にしようか、この作業は中断しようか。それらを悩む時、進むことも戻ることも困難になった制作途中のシーンが頭を過る。

私はどんな「絵」を完成させたいのか。一筆書きで善しとする性分でないことくらい、自覚している。


昨日まで泣くほど好きだったはずのものを今日突然どうでも良くなってしまう、その虚無の繰り返しの中で仕事を決め、伴侶を決め、生活拠点を定め、「絶対どこにも行かない」なんて夢みたいな台詞で抱き締めたりする。飽きたという理由では到底放り出せない状況が人生を象っていくことに足がすくむ。私は画家である自分に、飽きるだろうか。私は彼や彼女にもやっぱり飽きるだろうか。情熱の死がどうしようもなく恐ろしい。


空は、28年間私の頭上に広がっているのにいつまでも飽きさせない。いや、違う。とっくに何度も飽きていて、それでも表情の多様さに幾度も未知を突き付けられ、その度に夢中になっているのかもしれない。
ならば私は、誰かにとっての空になりたい。いつも当たり前に在り、それでもふと見た瞬間に「ああ、やはり」と情動が息を吹き返す。そうやっていろんなものに喩えながら、飽和を越えた先にある境地をもう少しだけ掴みたいのだ。

小林舞香