どこまでも繰り返し変奏されつづける通奏低音を聴いていたい

第23期(2015年10月-11月)

よくパッサカリアやシャコンヌなどの通奏低音音楽を聴く。

幼い頃、僕はあまり病気をしない方だったけど、年に一度は必ず高い熱を出した。そういう時は枕元にラジオがあったから、部屋の天井の木目を見つめながら、ずっとそのラジオを聞いた。NHK。ニュースで一連の出来事が述べられた後、朗読の時間があって、「なめとこ山の熊」だとか「山男の四月」が、少し怖そうなおばさんの声で朗読された。その後、決まった時刻がくるとモーツァルトのホルン協奏曲が流れ、交通情報が流れた。鹿嶋に住む病人に環八通りの渋滞情報なんて必要ないのに、なぜそのままモーツァルトを流してくれないのか、と思った。気がする。

僕が初めて聞いたオーケストラ曲はこのラジオから流れるモーツァルトのホルン協奏曲だったのかもしれない。両親はレコードの蒐集家でもなかったし、ピアノの先生がテープレコーダーに焼いて渡してくれた発表会のための曲も、そんなに多くはなかった。(それは小学生の自分が新しい音楽に触れる重要な機会だった)。小学校の音楽の教科書に載っている作曲家の曲、ピアノの発表会で聴く誰かが弾く曲。世の中には小学生の頃からワーグナーに傾倒する人もいるようだけれど、考えてみれば僕の幼年時代というのは凡庸なものだ。ショパンやバッハは弾きにくくて嫌いだったし、ベートーヴェンはかっこよかった。確かにベートーヴェンはかっこよかった。ピアノソナタのなかでは熱情が一番かっこよかった。

僕は大阪の阪南市で生まれて、小学校からは茨城県の鹿嶋市で育った。どちらも都会とは言い難い。1990年代の鹿嶋市はJリーグの開幕で沸いていた。東京に遅れること十数年、ロードサイド型の開発がなされてた時期で、ちょうど僕が小学校高学年になった1990年代後半には大きな幹線道路が開通して、TSUTAYAやRight-on、マクドナルドが出来た。僕は友人の家でダンスダンスレボリューションをやって、スマブラをやって、近所にある「地獄谷」と呼ばれる沼で釣りをした。ブルーギル。どこにでもいる小学生だった。放課後には友達とゲームボーイを持ち寄ってポケモンをして、おもちゃ屋主催のミニ四駆大会に出たりした。

その頃住んでいた団地を僕は今も克明に思い出すことが出来る。狭い2DK。アップライトのピアノを置くと一部屋が埋まってしまう。テレビは両親が大切に使っていたダイヤル式のブラウン管。うまくダイヤルを合わせなければ映らないあのテレビ。近くからでは赤緑青の抽象画のようにしか見えなかったから、テレビは遠くから見るものだった。もちろん、ドラゴンボールやスラムダンクも不鮮明な画像のまま見た。友達の家に行けば綺麗に映るテレビがあって、それを何度となく羨ましく思った。

団地で3年間暮らして、借家に移った。オレンジ色の瓦屋根の、庭付き一戸建て。SPEEDがwhite loveを歌い、宇多田がautomaticを歌い、モー娘。がLOVEマシーンを歌っていた頃。僕は特にSPEEDにも宇多田にもモー娘。にも興味がなかった。特に強く惹かれた記憶もない。小学校高学年にもなると、周りの女の子はSPEEDに夢中だった。僕が好意を寄せていた女の子は安室奈美恵のファンだった。でも僕はそのことに少しも注意も払わなかったし、SPEEDや安室奈美恵を好きだと表明することが、何か彼女らにとって特別な意味を持つものであるということもわからなかった。ダンスは女がやるもの、歌も女がうたうもの、という認識がなんとなく自分の中にもあった。ピアノを習っている男の子も少なかった。

いま思い出したけれど、当時は友達と遊ぶときには家に電話をかけて「いまから遊べる?遊ばない?」と聞いていたのだ。

こういう記憶があるのも関わらず、本当にあの地で8年間を過ごしたのかどうか、そのことに自信が持てなくなることがある。そののち僕は千葉に移り住んで、大学に入るまでの間を東京に近い場所で過ごすのだけど、千葉での生活と鹿嶋での生活との接続回路みたいなものが断たれていて、その頃の記憶だけが、分断されてしまった孤島のようだ。そして時折、その孤島から伏流してくる記憶やらなんやらが、ある閾値を越えると身体を揺り動かす。どういうわけか。

そうなってしまうと、確かめなければ気が済まない。あの地が本当に実在しているのか、何度か実際に行ったことがある。引越した直後の中学3年の時、高校を卒業した時、あともう何度か行ったと思う。総武線快速には鹿島神宮行きという電車があるから、それに乗れば一本で行けることはいつだって知っていた。だけどそのことがどうにも不合理に思えるのだった。終点に着いてみればそこはあっけないほど見覚えある光景で、僕はそこから自分の住んでいた家にも、通っていた小学校にも、中学校にも、よく遊んだ空き地にも行くことができた。ここも覚えてる、ここも覚えてる、ここも昔のままだ、この森の小径を抜けるとよく遊んだあいつの家に着く。

小学校の前まで来て、果たして本当にそうだろうか、と音楽室に通してもらって、当時吹いていたコルネットを見せてもらったこともある。数年前に自分が使っていたものと同じ銀のコルネットがあって、自分が使っていたものと同じ楽譜ファイルがあって、そのなかの楽譜も、いくつかは自分がつかっていたものだった。緑色の絨毯が敷かれた音楽室で、部屋の奥には譜面台と木琴と鉄琴が並んでいた。現実とはあっけないものだ。

バッハやビーバーを聞く時、
しっくりくるのはこの記憶で、
そのイメージは不確かなものとしてしか存在せず、
手繰り寄せることは難しい。
それは発声と同時に消えてしまう
声のようなものだから

どこまでも繰り返し変奏されつづける通奏低音を聴いていたい。