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2F/当番ノート

ぽかーんとしたからだ

当番ノート 第37期

からだって、建物みたいだなあと思う。
骨組みとはよく言ったもので、例えば立ち上がった時、足の裏が一番底辺にあって、二本の足は股関節から骨盤を拠点に一本の背骨となり、そのてっぺんに頭が乗っかかる。

私の足の大きさは23.5センチ。
二つの足の裏で自重を支えてバランスをとっているんだから、こりゃすごい。
からだは私が知らないうちに、多くの仕事をしてくれている。

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感覚と身体運動について考える。

数年前に外科的な要因で腰の手術をした。
全身麻酔の手術から目が覚めて、1日目はベッドに寝たまま(後にも先にも、この1日が本当に辛かった…)
2日目、車椅子に乗って、足でぴょこぴょこ進みながらお手洗いに行けるように。
そのうち歩行器を使って病院の館内を周回したり、手すりを持って簡単なストレッチをするようになった。
この入院中、体験したことで忘れられないことがある。

術後、初めて車椅子から「立つ」時。
なんとも不思議な感覚に陥った。

「立てない」

なんというか、からだが解散〜!した状態で、それまで感じたことのない、感覚と実際の身体運動の差異を感じた。
ちなみに私の頭の中で交わされていたことはこんなセリフ。

私1「はい、立ちまーす」
私2「、、、あれ、、、どうやって立つんやったっけ」
私1「え、、、」
私2「どこに力を入れたらいいか、どこがどうなったら立てるのかわからない」

完全にずれていた。
ぽかーんとしたからだ。

そこで、ふと、術前に少し学んでいたボディーワークの言葉を思い出した。
「足の裏で床を踏んで、その力を骨盤、背骨に伝えて、その上に頭を乗せる」
そんな当たり前(もう、意識以前のことかも)を頭の中でゆっくり唱えると、「立つ」ことができた。

この「ぽかーん」とした一瞬の体験というのは、強烈だった。
それ以降、自身のからだの内的感覚を辿り踊ることや、外的な形の面白さに、以前よりも増して興味を持つようになった。
もう二度と体験したくないけど、確実にいまの私の芯になっている。

人ってなまものだなと思う。
心もからだも。

植物や動物、季節や気候と同じように、その日その日で変化していく。
愉快な時もあれば辛い時もあって、柔らかい時もあれば硬い時もある。
春が来て夏が来て、秋になって冬になる。
ゆるやかにしなやかに、緊張と弛緩を繰り替えし、循環しながら生きている。
寝転がって、うーーーんと深呼吸して「さあ、今日はどんな感じ?」と日々新しくなる自分に問いかけてみようと思う。

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高野 裕子

高野 裕子

踊り手・振付家
1983年生まれ
関西を拠点に活動しています

Reviewed by
舩橋 陽

幼い頃、熱を出して数日休んだ病み上がりに、寝床から立ち上がるつもりが、気づかないくらい瞬時に「カクン」と倒れ込んだ事がある。再度立ち上がると、頭は少しフラフラしてはいたけど、なんとか立てた。
今思いかえすと、伏せって横になっていた時間が長く、数日、ほとんど立つ姿勢にならない間に、それまでは無意識に成り立っていた、立ち上がるのに必要な動作と様々な感覚の連携や統合の為の接続が切れたり滞ったりしていた様だ。
そう。それは高野さん曰くの「ぽかーんとしたからだ」だった。

多分、生まれてからハイハイして、掴まり立ちをして、やがてヨチヨチと歩き出す自身の育成の過程で、その時は相当に頑張って、でも、やがて当たり前な事として様々な動作は無意識なレベルで身体に染み込んでいるのだろう。
でも、怪我や手術などの様々な事由から、それらが、自身の身体から剥がれ落ちた時、そのオートマティックでシステマティックな様々を再インストールしてギクシャクをトリムしなければならない。そんな出来事だった。

もう一つ。
大学の造形基礎実習で、利き手でない方の手で描いたり、筆の柄のいちばん端を持って描いたりするという課題が出た事があった。見えていたり頭の中で想い描いているものを、不自由なツールで書き出す、という事を実際に体験、体感させるのが出題者の狙いだったのだろう。

自由自在を剥ぎ取られた肢体やツールで書き出される表現には作者の意思だけが炙り出されるのだろうか?

生き物として、肢体に関するエラーは、生き死にに直結するから只事ではない。けど、表現に於いては興味深い軌跡を残せるのではないだろうか。そんな事も思う。

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