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2F/当番ノート

「好き」を恋と友情に切り分けると不幸になる

当番ノート 第44期

――恋と友情の境目は、どこにあると思いますか?

唐突ですね。それは、異性間の話?

――異性間でも、同性間でも。ある日まで友情だと思っていた感情が、いつの間にか恋に変わっていることはよくある話です。

友情と恋って、そんなにはっきり白と黒のように分かれるものかしら。「好き」という想いに、人のほうが友情や恋と勝手に名前をつけるだけだと思うの。

――たとえば、異性愛者の男性同士は、どんなに仲が良くても、手を握ったりハグをしたりというような身体的接触に生理的嫌悪を感じることが多い。同様に男女間でも、それは起こり得ることだと思います。

まあ、それはそうね。でもわたし、身体の接触や肉体関係が恋と友情の境目にあるとは思わない。友人と「できる」人もいるし、愛する人とは「できない」人もいる。

「”好き”の種類が違う」なんていうこともよく聞きますよね。友人に対する「好き」と、恋人に対する「好き」は違う。友人を独占したいとは思わないけれど、恋人には自分だけを見てほしいし、他の人に目移りしないでほしい。相手が自分に向ける意識を奪おうとするのが、恋の特徴のひとつかもしれません。

――その理屈でいうと、独占欲や支配欲の有無が恋と友情を分けるということですか?

まったく完璧ではありませんが、それもひとつの説明として成り立つ場合はあるでしょうね。けれど、もちろん恋人を独占したいと思わない人だっている。この問いはイタチごっこですよ。こう考える人もいる、ああ考える人もいる、それはその人にとっては恋の真実だけれど、別の人にとっては真実ではない。あなたは、何がお知りになりたいの?

――恋と友情の境目について、あなたの考えが知りたいのです。

それはつまり、恋と友情に境目があるという立場に立っているからそうおっしゃるのね。であればわたしは、恋と友情に境目はなく、「好き」という感情に人が勝手に名前をつけるだけ、とお答えします。たいていはそのときの感情とタイミング任せ。ある人の意識を独占したい、肉体関係を結びたいと瞬発的に感じれば、人はその気持ちを安易に恋と呼ぶし、エゴイスティックな欲望や性的魅力を感じない人に対して、その人とこれからも良き関係で並走したいと思えば、それを友情と呼ぶ。それだけのことです。恋に「落ちる」という表現を使うのは、その安易さに突き動かされるからじゃないかしら。

――わかりました。では別の角度から質問させてください。人は、どうやって恋人を選ぶのでしょう。

つまらない言葉ですけれど、それは本当に人それぞれでしょう。外見や経済力、性格、さまざまな基準があって、その基準の中にも細かい条件がたくさんあります。いくつかの大きな基準の優先順位付けと、基準の中の条件の組み合わせで、そのときに出会った人々の中から最も自身の理想に近い人を恋人に選ぶのではないですか。

それに、恋人ばかりが選ばれるわけではありませんよ。友人だって無意識のうちに選ばれている。たとえばわたしは、うつくしい人が好きです。だから、親しい人はうつくしい人しかいません。もちろん、わたしが感じる「うつくしさ」の条件は、わたしの主観によるものばかりですけど。少し話がそれましたが、同じ知的レベルの人や、同じ社会階級の人、あるいは、ある性格の傾向を持つ人を友人としたい、そうではない人とはあまり親しくならない、ということは、多くの人が経験してるのではないかしら。

――確かにその通りですね。そして友人であれば、恋人と違って、距離が近付こうと疎遠になろうと、関係性に対して始まりや終止の宣言をすることはほとんどない。好意と距離感の幅が恋に比べてずっと広い、というのは友情の特徴かもしれません。

明晰な視点ね。わたしもその見方には賛成します。しかし、宣言をしないことはやはり恋人同士にも当てはまるし、宣言しないことを誰も禁じていない、という条件付きで。

やはり、あなたは恋と友情をあくまでも分けて考える立場に立たれるのね。なぜそんなに恋と友情の境目にこだわるの?

――あなたの言う通り、この2つはもしかしたら一緒かもしれないし、違うのかもしれない。非常によく似ています。似ているけれど明らかに違うと感じられる。その違いを知りたいからです。

知って、どうするの。

――「好きだ」と感じられる人とどう関係を結んでいけばよいかを、見極める必要があると思うんです。友人はたくさんいてもいいけれど、パートナーは一人でいい。

そう考える人は、確かにとても多いですね。

――あるいは、好きな人が「自分だけをパートナーとしてほしい」と願うのであれば、簡単に誰彼とも恋愛関係を結ぶわけにはいかない。であれば、好きだという感情を、友情と恋に切り分ける必要があります。

先ほどわたしは「その2つに境目はない」と申しましたが、厳密には、「好き」という想いを切り分けて扱うと、不幸になると考えているのです。「好き」をカテゴライズなどして、何か満たされるのでしょうか。性的な興奮や独占欲などは一瞬で過ぎ去ってしまうことは、失恋を経験したひとであれば誰もが知っているはず。情と親愛と肉欲のあいだで身動きがとれずに苦しむ人もいる。友情と恋だけでなく、好きという想いをカテゴライズすることは、大抵の場合不幸を呼んでしまうと思いません? 想いというものは、頭で考えて切り分けるにはあまりに繊細すぎる。頭は想いの破片を見失うわ。そもそも、理知で扱うべき領域ではないのかもしれません。

――では、あまりに複雑で不純な生の世界を、人はどう生きていけばよいのでしょうか。

もう、飛び込んでみるしかないの。ばかみたいに単純な答えでごめんなさいね。でも、本気でそう思っているわ。たまたまそのときそこに居合わせた人が、自分に好意を抱いてくれて、自分もその人に好意を抱いている。その好意を、呼びたければ恋と呼べばいい。嫌なら、友情と呼べばいい。恋と呼ぶならば、恋のなかでしか過ごせないとあなたが考える時間を、その人と過ごしてみればいいのではないかしら。理知で想いを分析して切り分けようなんてしても、どこまでも徒労よ。ならば、飛び込むのが一番。

――飛び込む。

人はきっとその勢いを、縁と呼ぶのよ。ほんとうに、身勝手ね。

Reviewed by
kuma

誰かに特別な好意を抱くとき、人は語彙の森で彷徨いくるしむ。しかし感情の根元であるかのような「想い」に立ち返るとき、本能的な意思が、実は思いがけなく頼りあるものだと気がつかされる。

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