泣ける話と泣けない私 -01

第47期

KAZUKIHIRO81005

 月末の金曜日なんて、いつもなら月次決算に向けたデータの整理やらで残業待ったナシなのに、あの日は経理部全員が16時に退社させられた。プレミアムフライデーというやつが初めて実施された日だった。課長は終日「後でしわ寄せくるだけなんだけどなあ」とぼやいていた。
 大手町から丸の内線に乗り込み、20分ほど揺られ、地上に出た。まだ薄っすらと明るい夕方の新宿は、浮足立った会社員たちで賑わっていた。居酒屋やバルには軒並み人が溢れていて、なんとなくなのだけど、地に足のついていないようなフワフワとした盛り上がりを見せていたと思う。
私は同僚の美央と一緒に、大通り沿いのビルの中にあるシネコンに入った。公開されて間もない『劇場版TIGER & BUNNY -The Rising-』を堪能するつもりだったのにまさかの満席で、仕方なく『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のチケットを買ったんだった。私の頭の中の“レオ様”はタイタニックで止まっていたので、欲望に忠実で文字通りイカれた主人公を演じるオレ様なレオナルド・ディカプリオ氏には度肝を抜かれたけど、最高にスカッとする内容で、私たちは終始ゲラゲラと笑っていた。クスリをキメて呂律が回らなくなっているシーンなどは笑いすぎて、涙が出てくるほどだった。
 映画館から出てスマホの電源を入れると、まだ19時過ぎだった。知らない番号から着信と留守電が入っていた。どうせクレカか保険のキャンペーン案内とかだろうと思って、スマホをトートバッグの底に押しやった。これから美央とじっくり映画の話ができることに、小さな幸せを感じていた。私たちは浮かれた飲み屋街で、ひと際賑わっている焼き鳥屋に喜んで吸い込まれた。

「実はさー。先週、ポテトが死んじゃってさ」
 1年分笑ったんじゃないかってくらい笑いながら映画の感想を語り合い、4本目の2合徳利が席に運ばれた後、ヒーヒーと少し息を切らしながら、美央は言った。ポテトは、美央が子どもの頃から実家で飼っている柴犬の名前だ。何度か写真を見せつけられたことがある。今は一人暮らしをしている美央だが、ポテトに会いたいからという理由で、二カ月に一度は名古屋にある実家まで帰っていた。
「もう15歳だったし、そろそろね。お迎えが来ても、不思議じゃないね、って話はさ、家族でしてたんだけどね」
 頭の回転が早くて、いつもは講談師のように小気味よくしゃべる美央が、ポツリポツリと話した。それは、頭の中に散らばったままの事実や感情を、一つひとつ手に取って整理しているような口調だった。私はとっさに美央の手を取って「いいよ、そのまま吐き出して」と言った。
 そこからは堰を切ったように、美央は語り出した。死因は老衰だったこと。3カ月前くらいからポテトの食欲が目に見えて減っていたこと。鳥のササミが大好きだったこと。美央が高校でクラスに溶け込めなかった時期、ポテトとの散歩が心の支えになったこと。ポテトがどんどん痩せていくので、家族みんなでダイエットを始めたこと。これは老衰で自然な行く末だから、必要以上に悲しんだり憐れんだりしないで、明るく見守っていこうと決めたこと。目が白く濁っていったこと。テニスボールが好きだったこと。ポテトの名付け親は、美央の母親のパート先のスーパーの店長だったこと。死ぬ前の1週間ほど、実家から新幹線で会社のある大手町まで通っていたこと。最期の日、いつこと切れてもおかしくないという状況下で、美央が帰宅するまで意識を保っていたこと。

「ちょっと、なんでアンタが泣いてんの」
 記憶の世界からふっと現実に戻った美央は、私の顔を見て笑った。だっでざあー、としか言えなかった。美央の言葉の端々に、ポテトへの愛が溢れていた。その喪失を思うと胸が締め付けられたし、何より美央がたぶん今なお深い悲しみの中にいることや、それにここ数日気付けなかった自分の情けなさに、気持ちがいっぱいいっぱいになってしまった。挙句の果てに「もううかつにポテサラ頼めないじゃん!」と意味のわからないことを言ったら、美央は噴き出して「私が頼むから心配するな」と胸を張った。「それじゃ私がまた泣ぐー」とテーブルに突っ伏したら、美央は私の頭を撫でた。
「ありがとね。ちょっとスッキリした。陽子に話せてよかったわ」
 どうやら役に立てたらしい。都合の良い私はそのことですっかり元気を取り戻した。美央がトイレに立ったタイミングで、私の意識はふっと散り散りになって、そう言えばさっきブーブー震えていた気がするなと思い返し、バッグの底からスマホを取り出した。その時の時刻は、確か22時過ぎ。着信が上から「お母さん」「お母さん」「お父さん」と3件並び、留守電が「21:07 お母さん」「19:30 お母さん」と2件入っていた。軽い伝達ならLINEでしてくる。わざわざ電話でなんだろうと、疑問に思った。戻ってきた美央に一声かけて、店の外に出て、お母さんからの留守電の新しい方から聞いた。

「もしもし。お父さんのお母さんが今、老人ホームで息を引き取りました。えーっと、これを聞いたら、とりあえず連絡ください」
 私は相当酔っていたせいで、本当に薄情なのだけど、その瞬間は「そっかー」としか思わなかった。しばらくは酔ったせいだったのだと思っていた。けれども、実際にはそうじゃなかった。

<photo by カズキヒロ>