飴屋法水「教室」を観た

長期滞在者

長らくこのアパートメントの自室に引き籠ってしまった。
そうこうしてるうちに冷たい冬が窓の外を叩き始めて余計に部屋から出づらくなった。
それでもわたしはどうにかキーボードを叩いて新しい景色に出逢いたいと思う。

さて、今回はわたしが今年の夏に出逢った演劇作品についてお話しする。
こどもを対象とした演劇祭“TACT/FEST”で上演された飴屋法水演出の「教室」という作品について。
この作品は、演出家の飴屋自身とその妻コロスケ、そして六歳の娘くるみちゃんという、実の家族三人が出演する舞台。
舞台で素人中心の家族三人が辛抱強くお芝居する「教室」…
端的にこれだけ書くとひどい内容だろうねと言われそうだが、書いていることはあながち間違ってはいない。
それでいてどんな作品よりも不自然なく緻密に構成された60分…あれは事件だった。
それは演劇という形を借りたドキュメント、もしくは演劇の中のドキュメンタリズムを丁寧に引き延ばした家族写真のような作品。
そこには派手なセットも衣装も特別な舞台装置もなかった。
ただこれ以上ない程に、むきだしの家族が躍動していた。

「どうしてお父さんはお母さんを選んだの?」
「お父さんの近くにお母さんがいたから交尾したんだよ」

上演中は親子の間で赤裸々な事実が淡々と語られてゆく。
そう、家族が形作られるのに「愛」なんてものは二次的な問題に過ぎないのだ。
ただあなたとわたしが「側にいる」という事実が、家族を構成する一番の理由になる。
出演している三人が実の親子と知らずに観た人もいたが、結局最後までそうとは気づかなかったようだ。
裏を返せばそれは彼ら三人がちゃんと家族を演じていたからだと言える。
飴屋氏には最初からこれは演劇に成り得るという確固としたイメージがあったのだろうか?
どこまでがフィクションでノンフィクションなのか?
そんな問いが野暮になるほど、この家族は舞台上に存在するだけで否が応にも物語の匂いを放っていた。

作品内では生殖と死という問題が扱われながら、暗さや重苦しさはまるでなかった。
―わたしたちはどこから来てどこへ行くのか?―
ともすれば陳腐なこのテーマに対して、「はい、おっぱいから骨壷までです。」と、気持ちいいほど潔く言い切ってみせた。
劇中では飴屋氏の父の骨壷が(遺灰も!)登場し、人というものが笑ってしまうほど実務的で断続的な「営み」によって成り立っていることを強調してみせた。
しかしながらそれは決してあざとくはなかったし単なる即物主義にも陥らなかった。
わたしには宇宙に星が生まれて塵になるまでの“摩擦の物語”のように思えた。
この世は全て物理的な摩擦から生じるマジックなのかもしれない。
そこで生まれる化学反応が時を経ても人を感動させるのだろう。

劇中の男は父親として、ときには学校の先生という役を借りて、巧みに本音を語ろうとする。
そして、六歳の娘を土の中から六年目に出て来た蝉と同列に捉えながら、自分たちも蝉と同じ生き物だと語る。
父親もまた生物学的には一匹の動物であること。そういう視点でこどもに接することが、確かに一番効果的な人間教育なのかもしれない。
わたしは世の先生と呼ばれる人種が、自らも家庭における生徒だったという体験をもっとこどもに打ち明けてほしいと願う。
先生が最初から先生然としてルールを諭すものだから、わたし自身は中高と担任の教師にとても距離を感じていたものだ。
あの時、彼らも人の子であるという態度で接してくれていたら、わたしも少しは違った関係が築けたかもしれない。

閑話休題。劇中の男は父親になる責任から逃れようとし、子の問い妻の問いに戸惑い家族の問題を直視せずに生きてきた。
いじわるな見方をすれば、男は(つまり飴屋自身が)父親の責任を演劇という形にすり替えてお茶を濁す可能性があった。
ところがそうはならずに嘘臭さもしらけムードも全くなく、驚くほど心を打つ演劇作品になっていたのは何故だろうか?
それは飴屋氏が演劇祭に招聘され依頼された作品を作るという名目で、あらためて自らの家族と真摯に向き合ったからに他ならない。
そして「うちの家族の場合はこう」という客観性の獲得が、極めて個人的な事こそもっとも普遍的な作品になり得ることを示したのだ。

自らを蝉と同列に語ろうとしていた飴屋だが、一方では人間ならではのミッションを浮き彫りにさせた。
わたしたち人間は他の生物とはやっぱり違う。1+1=3になってから、ようやく家族の役割を認識するのだ。
ミヒャエル・エンデは「真実は創りだす概念だ」と述べていたが、家族というものもまさに創りだす概念なのだろう。
わたしは飴屋氏の娘のくるみちゃんがどういう大人になるか身震いする程楽しみなのである。
こども(もしくは未来)に対する期待こそが、家族を形作りひいては社会を作ってゆくのだから。

この作品を観てヒリヒリした!シビれてしまった!と、感じた人はたくさんいただろう。
で、この作品にひとつだけゆゆしき問題があるとしたら…
これを観て演劇を始めようと思った人は…(よっぽど肝が据わった人でない限り)ちょっと皆無ではなかろうか?
それはあまりにも作品というものに対して、そして演劇というものに対して自己犠牲的だからだ。
いやむしろ、舞台表現というものを自分自身より信頼している者のみが到達できる世界だからだ。
もう少し向うまで行ったら、アブない世界に行ってしまう…そういうギリギリのラインの綱渡り…
だから逆を言えば、中途半端な気持ちで演劇をやっている人を堅気な道へと更生させるには充分な作品!

それでも観たいと思う演劇人にはもちろん、家族を持つ全ての人に観てほしい作品であった。
家族が家族という枠組みを突き破りながら、やはり家族でしか成し得ないチームワークを披露した人間関係の冒険。
ニュートラルなんだけどとびきりキュートで、とびきりリアルなんだけど何所かファンタジックな、そんな作品に出逢えたことに心から感謝したい。
そして、飴屋氏にはもちろん、飴屋氏に家族の作品をとオファーしたプロデューサー樺澤氏と、飴屋氏の提案に真正面から向き合った彼の妻子に心から拍手を送りたいと思う。

以下、参考資料として本公演における飴屋法水インタビューのリンクを貼っておく。

『教室』飴屋法水インタビュー
※大阪国際児童青少年アートフェスティバル2013 TACT/FEST 取材・文=徳永京子