三年前、そよ風のように逝ったナナオサカキという詩人がいる。ちょうど「飯島愛 自殺」でメディアが震撼していた同じ日、目立たずひっそりと肉体を離れた本物のヒッピーで放浪詩人。鹿児島出身、身長170cm、体重60kg、時速6km。享年85歳。飯島愛の死は非常に痛々しく映ったが、ナナオサカキの死は、彼にくじ引きで天国が当たったようなニュースに受け取れた。同じ死というものがこれほど違う印象を与えることに、わたしは感慨深さを覚えたものだ。
わたしが東京で口に糊していた頃、2002年頃だったと思う。新宿のロフトプラスワンというサブカルの殿堂で、地球規模で考え、語り、笑う詩人に出会った。その詩人こそ、ナナオサカキその人であった。その場は彼の盟友のビート詩人、ゲイリー・スナイダーを交えたトークショーで、ナナオ氏はゲストで呼ばれていたのだった。彼はうわさ通り飾らない人柄で、易しいコトバで飄々と宇宙を語っていた。そのトークショーが観客の質問コーナーに移ったとき、ある若者が手を上げこの老詩人に問いかけたのだ。
彼は若さ特有の正義感と緊張感を持ってひとつの質問を投げかけた。
「ナナオさんは、あの9.11はどう思われましたか!」
間髪入れずに、老詩人は答えた。
「え?キュウイチイチって何?」
場内どよめく。
のち、爆笑の渦。
時速6kmで世界の雑踏を散歩する老詩人は、9.11を知らなかったのだ。
その場にいる他の全ての人間はまざまざと思い知らされた。みんなあまりにも共通言語に頼りすぎていると。当たり前のことかも知れないが、みんなが知っていることと、知っておくべきことというのは、必ずしもイコールではない。共通言語を持つより先に、自分の興味・体験から湧き出るコトバが必要なんじゃ。
9.11を知らない老詩人の一言で、わたしは何時間も論争するテレビの政治評論家より、9.11のこと、そして人生の機微をしみじみと学んだ。まさに「知らないでいる」ということに、わたしは何よりも知らされた出来事であった。彼はただ、自分の歩く速度で世界を跨ぎ、見える景色で世界を感じ、世界中の人々に愛される詩人となったのだ。
知らなければいけないことなんて本当はそう多くはないはず。肝心なのは、ただ謙虚に生きて隣人を愛すること。最初から世界を「理解するもの」と受け取るから、みんな情報量の多さで自分たちの首を絞めるようになっちまった。バベルの塔とか、ワールドトレードセンターとかが崩れてしまってからというもの、いつからかジャパァンでは二、三歳からイングリッシュをラーンする時代にビケイムした。おぅい、日本のチルドレンたちよハロォ。最近見ないけどルー大柴だって自分のコトバで生きてるじゃあないか。きみたちが何でも口に入れていたあの頃のように、ただ自分の味覚で世界を感じられればよい。飽くまでも世界はきみたちの手の届く範囲で感じるものであり、そこから少しずつ想像するものでよい。
ナナオさん、どうもありがとう。
「少年の街」展@gallery yolcha