いつもよりちょっとだけ早起きをして
アラジンの石油ストーブに火をつける。
バリエッティでコポコポ淹れたエスプレッソをたっぷりの牛乳に注いでから
テーブルの上の朝刊を広げる。
端から順に目を通している間に息子がもしゃもしゃの頭で起きてくる。
「おはよう」「ん、あ、おはよう」
しばらくすると娘がまだ幼い時の面影を残したような顔でリビングでくつろぐ犬に寄り添う。
「おはよう」「おはよぅー」
「パン、焼こうか?」「うん、たべる」
「食パンはね、きつね色より、もうちょっと焦げた方が美味しいんだよ」
犬はパンの耳のおこぼれに預かろうと3人の横をしっぽを振りながら巡回するのが仕事。
妻はもっと早く起きてパートタイムの仕事に出かけているから
平日の朝みたいに掃除機をがんがんかけない土曜の朝は静かなのである。
昼過ぎには妻が帰ってくるので、犬と僕と妻で散歩に出かける。
春先の川辺は新しいいのちでキラキラ萌えているのだ。
妻は知らない鳥や植物を見つけると写真を撮り
あとで調べるんだと観察している。だから渡り鳥や季節の花に詳しい。
「ねぇ、この辺の真ん中だけ流れが速いのなんでだろ。浅いのかな。」
「魚が下流に泳ぎやすいように川が調節してるんだよ。」
「ウソばっかり。」
* * *
これが休日の僕たちにとっての「普通」である。
僕にとっての「普通」の定義だ。はっきりとしている。
大きな地震があると、この「普通」が失われるんだね。
そういう事がわかってしまった。
それは、今日訪れるかもしれないし、数年後、数十年後かもしれないけど、
最近ではもう間近にせまっていると言われている。
残念なことに、それは地震じゃなくても。
こどもたちの寝ぼけ眼や、犬の足音や、ブラインドの角度や、食パンの焦げた香りや、歯ブラシや、
妻の仕草や、公園のブランコや、耳たぶに感じている風や、そういった「普通」を構成しているアイテムを
大切に大切に、記憶の引き出しにそっとそっと、しまって。
そして、一瞬一瞬を一生懸命に「普通」を生きるんだ。
それが出来るという事があたりまえでないという事実を胸に刻み込みながら。
今朝は掃除機の音で目がさめた。
「何時頃帰ってくる?夕飯家で食べる?」
「んー、メールするよ。」
「わかった、メールして。それによっておかずが変わるんだから。」
「そうなの?」
「そうよ。」
「いいよ、変わらなくて。いってくるね。」
「変わるのよ。いってらっしゃい。」
ーーーいってらっしゃいーーー
僕は、こだまのように、「いってらっしゃい。」を噛みしめる。