ある公園へ撮影をしに行った日の出来事。
その公園には噴水があって、その周りでは鴨の親子や鳩達が
日光浴や水浴びをしていた
噴水のそばに1羽、けがをしているのか人間が近くにいても飛び立つ事のできない鳩がいた
近くには鳥達に餌をあげないでという趣旨の看板が立てられていたけれど
私はポッケの中に入れていたクッキーをその子にあげたい気持になってしまった
しかし、私が一定以上の距離に近寄ってはよたよたの歩き方で逃げてしまう
その子の方へクッキーを割ったものを投げても
他の鳩や雀達が先に寄ってきて食べてしまう
少し離れてその子を見ているとやはり同じ場所でうずくまったままでいた
このまま餌にありつけずにいたらどうするのだろう、
雨が降ったらどうするのだろう、
帰るところはあるのだろうか、
そんなことを思いながらその日は帰宅した
翌日 またその公園へ足を運んだ
同じ場所ではなかったけれど 近くにおそらく昨日のその子であろう亡骸を見つけた
私はその子の亡骸をみて少しだけ泣いた
それはその子に餌をあげることができなかったという後悔もあったかもしれないが
私自身の為に泣いたのだと思う
きっと私はその子に私自身を投影していたのだろう
その頃の私は、写真や表現に関して
どう表現をしても 何か間違っている気がして
私自身がうずくまっていたから
その日、その後、同じ公園内にてある親子の会話が聞こえてきた
「大きなくまさんもらえて良かったね〜」
とママ、
すると息子くんは
「ちがうよ これはくまさんじゃないよ くまさんの風船だよ」
と答えた
ママは一瞬ぽかんとしたような感じにも見えたけど、すぐにその表情は笑いへ変わった
私はその会話を聞いたお陰で頭がくっきりしてくるのを感じて
やっとその日の夕焼けの色が目に入ってきた
鳩は寿命だったのかもしれない
もしかしたら死ぬ時に悲しいとかそういう感情はなくて
人間側の私の思い入れで私が勝手に悲しい気持になっただけのかもしれない
けれども、この日の二つの出来事が
大げさに聞こえるかもしれないけど
生きてくってきっとこういうことを感じとって
立ち止まって内の世界で生きたり、そこで自分を閉じていても
思いがけず外の世界の一瞬が目に飛び込んできて
また自分が外向きになって、
そういう繰り返しなんだなと思った記憶が
まだ色濃く私の中に残っているのです