大げさなタイトルだけど、
まず書き始めは好きな女の子のタイプのことから書きます。
ある一定数の男子はみんなそうだと思うのですが、
街を歩いていると、目の端でとらえた女性に完全に目を奪われることがあるんです。
そりゃもう、ぐわっって感じで、もう制御不能に見てしまう。
どんだけ欲求不満なんかって話だけど、あるときからその目を奪われる人のタイプについて考えるようになりました。
なぜかというと、そんな女性たちは年齢も背格好も、髪型も全然統一がなく、
シチュエーションにすら共通点がなかったからです。
一時期はなんちゅう節操のない人間なんだ僕は! と、ひとり落ち込んだりして、
自分(180センチある男です)より小柄な女性が好みですなんて人に話してたのですが、
それも違うよなーと思いながら暮らしておりました。
そんなある日、そんな女性の共通点を丹念に調べていくと、異常な自分の性癖に愕然とすることになりました。
それは、関心を寄せてしまう女性の要素が、緑色の服を着ているということだったからです。
つまり、女性そのものにはまったく関係ない要素に惹かれていました。
その後、ある本を読んでいて自分と同じような人がいることを知って少し安心したのですが、
いまだにその性癖は変わっていません。
今日も今日とて、そんな女性を目で追っていました。。。
さてー、本題はここからで。
自分が無意識に発しているメッセージに自覚的になると、けっこう面白いって話です。
人は日常、たくさんのジェスチャーをしています。
例えば足音。
この足音というのはたいへんに自意識が出てしまうものなんです。
存在を周囲に気付いてほしい寂しがりの人は、やはり大きな足音を立てます。
それはわざとなんじゃないかってくらい大げさに、しかも無意識に。
体重や体型なども若干関係しますが、それ以上に自意識が大きな音を出させるようです。
そのほか、コンプレックスを抱いている所を手で隠しながら話してしまったり、
それはもうかすかなチック症のような形で、不安や隠したいことが表に出てしまう。
たいていの人には大小必ず癖があると思いますが、人ってけなげな生き物なんだなぁと感じます。
こんな不器用で愛すべき特質に、意識を向けると自他の本心や”限定的な”人の本質に気がつくことができます。
限定的としたのは、発現したそれはその人のすべてではないからです。
対自分自身のことに限定して言うと、
これは他人に何かを言われることよりも、
より確実で、より切実で、より正直な物になります。
だから、日常をたんたんと過ごしながら、頭の片隅で常に意識してみる。
心にスッと現れる風を読むように、自分の表現した細かい仕草をひとつひとつ拾うんです。
そして、その意味を考える。
すると、自分のより深いところに手を伸ばすことが出来ます。
自分の中の変わってるエピソードを探して(あるいは創作して)披露して、
そのかけらのような個性を誇張してアピールするよりも、このように鏡を覗くのは重要な作業だと思います。
ただ、無意識を意識しすぎると神経症のようになり、気違いじみてしまいます。
が、それも良しと僕は思います。
一度みんな、狂ってみましょう。
自意識のおばけを自分の中に見つけて、
そいつとうまくつき合うには、狂うのはたいへんに有効です。
それから、その鏡を自分だけでなく、他人に向けてみてください。
別に、他人の目につく所作をあげつらって、人に作為を押し付けろというのではありません。
その他人の数多あるジェスチャーから選択的に拾い上げたその癖は、
じっさいには、他人でなく自分を表現するものだったりします。
自分の意識と、その奥にもう一つ「無意識」という人格があるととらえると、
自分が無意識に行うジェスチャーに「無意識」はすべて気がついています。
そして「無意識」は、他人と共通するジェスチャーにばかり反応してしまうのです。
嫌いな人の嫌いな部分は、たいてい自分が気にしている部分です。
他人は自分を映す鏡であるという言葉の真意はここにあります。
また長くなっちゃった。
だらだらした文章で、すいません。
来週の火曜日は、狂うことについて書こうかな。
狂うというのはタブー視されてあまり多く語られませんが、
それはもうたいへんに奥深くて、例えば動物と人間とを橋渡しする要素でもあって、
人間存在そのものに関わる大事なものだと考えています。
もちろん来週のことはわかないけど、
僕やあなたが死んでしまうかもしれないし、
「ぎゃー! 僕にも彼女が出来た!!」とか言って、
その女子のことをハイテンションでつらつら書くかもしれません。
だから題材についてはそのときに思いついたことを書こうと思います。
では、またー。