社会に「あなたはどう在りたいのか」と問われたら、大抵応えなければならない。その機会は面接だったり、尋問だったり、はたまたプロポーズだったり、生きていれば様々な形でやって来る。
28年間生きた東京を出てイギリスに制作拠点を移すことに決めたのは、今年の4月だった。いつかでいいやと思っていた英会話も、海外での制作活動も、今すぐにやってやろうと奮い立った日を覚えている。そして現在、目で見るもの、肌で感じるもの、匂い、音。五感に触れる全てを吸い込んで、栄養失調気味だった創意を潤す日々にいる。
東京生まれ東京育ちの私はケシの花の大きさも、ろくに知らない。白鳥の大きさも、草原を走る心地も、青い目の少女がブロンドを揺らして歩く様も、他人の目を通したものでしか知らなかった。
ある人々はそんな私を「嘘つき」と罵った。
私は魔法使いのフリは出来ても、魔法使いじゃない。表で天才を装ったところで、裏で膨大な時間をかけて仕込み、反復練習しなくてはならない凡人である。見たものしか描けない。観察しなければ知らない。一つ強みを言えば、見て、観察したものは絶対に描ける。
たくさんのものを、自分の目で見てやろうと思った。
物心ついた頃から私は「何が何でも表現者でありたい」という大枠の願望の中で奔走してきた。きっと、自分をステキに表現出来れば手法は何でも良くて、もっと美しければ被写体になっただろうし、もっと賢ければ社会のシステムに一石を投じることで世界観を表現したはずだ。たまたまアクリル画に嵌ってしまったに過ぎない。今だって、鉛筆画もデジタル画も、文字を書くのも、詩に感情を落とし込むのも、カメラで瞬間を切り取るのも、私が手掛ければ何だって私の世界観に染まると信じている。そのナルシシズムと根拠の無い自信が、今日までフリーランスの私を支えてきたのだ。
さて、はじめましての方もそうでない方も、こんにちは。
《画家・イラストレーター》の小林舞香です。
《画家・イラストレーター》と5年間併記してきたのには、それぞれの「違い」にコミットして活動しようと決めていたからであり、画家は画家、イラストレーターはイラストレーターとしての「顔」を持つことになんら違和感を感じていなかった。ただ、冒頭でも述べたように「社会」にしばしば問われる「あなたはどう在りたいのか」という質問に対して「私ったらどちらも出来ちゃうんですよ」と反芻しているうちに、結局どう在るのか1つを選ばないまま行ったり来たりアウトプットし続けたのが2013~2014年、大小200作品近く生み出した2年間であった。その中で《イラストレーター》として発信したものもあれば《画家》として発信したものもあり、一つ一つに対する説明に無頓着だったことは否めない。
スピード感を優先して作品を量産し、仕事の数を増やせば、必然的に質と方向性に対する信条を吟味する第三者が多く生まれる。画家としてはNGだけれどイラストレーターとしてはOKだったり、イラストレーターとしては駄目だけど画家としては素晴らしかったり、プロダクトに落とし込むなら効率が良くても絵画としては失格だったり、同業者が善しとしてもコンシューマーからしたら最悪だったりする。結局、そういう部分で細かく議論されるところが「社会」であり、そこに参加するならば、私は問題提起に対して向き合う必要がある。
単に好きなことをやりたいようにやる自由人じゃなくてフリーランスを名乗るならば、現代社会の思想にコミットしてこそようやく「職業」として認められる。
とはいえ今だって「これはこういうスタンスで作ったものです」「これを使ってこれで美しく見せています」といちいち過程と材料を全部曝け出すことが正しさだとは思っていない。けれど、自分はどう在りたかったのかと振り返ると、作りたいものをなりふり構わず作り、喜ぶ人々を見て自らの存在意義を見出し「これはどう?あれはどう?上手にできたでしょ?」と、大人に次々と達成物を提出する子どものようであった。
自分だけで満足するものではなく、他人ありきの表現活動ならば、これからは曖昧な在り方であってはならない。不確定な信念では、自分を守ることすら出来ない。絵の具を使い、筆でオリジナルを仕上げるということにきちんと向き合いたい。混合する需要と自分の根にある信念の狭間で見つけた答えは、第一に「筆跡が真実である画家」として自分の世界観を表現したいということだった。
「お前は手描きを信念とした絵描きなのか」「デジタル技術や写真加工も取り入れるイラストレーターなのか」「客に何を売って生きていきたいのか」「どこの素材を使ったんだ」「誰の影響を受けたんだ」「手品師じゃなくて詐欺師なのか」厳しく問い詰められる時代だ。「多くの人を喜ばせたかっただけです」では、答えにならない。
だからこそ私はもっとシビアに、豊潤な作品を生み出したいと決意することが出来る。
この時代に生まれた「絵を描く人」として応えていく。修行の幕開けである。