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2F/当番ノート

形のない比喩

当番ノート 第37期

「息を合わせる」という言葉がある。

例えば、誰かと踊る時に、お互いを意識し合いながら、タイミングを合わせたりずらしたりして踊るということ。
音楽を演奏したり、言葉を話す時、そして普段の生活の中にも通じている、からだと言葉。

同じ流れやリズムをからだの中に持つことで、同調させていく。
人だけでなく、音楽や空間そのものとも交わっていく。その逆も然り。

「息」に関する考察って、面白い。

先日の稽古で友人がこんなワークを提案してくれた。
二人で正面向きに立って、10回、吸う吐くという行為を繰り返し、終わったらその場に座る。
はじめはお互いに呼吸を合わせて同じタイミングで吸う、吐く、そして座る。
相手の呼吸を知ろうとすると、自然に相手の口元や肩、胸元に目線がいく。

吸う、吐くの運動をベースに、呼吸に合わせながら動いたり、途中で一回手を叩いたり、様々なシチュエーションへ発展させていく。

「物理的」に息を合わせると、どうなるのか。
呼吸って普段は無意識下でやっている行為だけど、いざ意識を向けるととても不自然な行為に感じて。
呼吸の長さとか深さとか、数字で測ろうとするとよくわからなくなって。
自分に自分が戸惑う、そのわからなさが面白い。

昨年上演した「息をまめる」という作品の終盤のシーン。
演者全員が、軽く目を瞑り、隣の人に触れるか触れないかくらいの距離に立つ。
ひとりひとり、自分のペースで呼吸をする。
アコーディオンの生演奏の音や、演奏者の呼吸が波のように伝わってくる。
緩やかな波がやがて他者の波と交わって、からだが触れていく。

手のひらや全身から伝わってくる他者の呼吸や動きをを感じながら、小さな波が大きな渦のようになる。
一人一人の息と音を感じながら、それぞれは自立し、自律している。
通奏低音のように流れる言葉にならない感覚、そしてそれを感じる、感じようとする、人間の姿が本当に美しかった。

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余談だけど、手のひらと懐(ふところ)って似ているなと思う。
挨拶や愛情表現の時に抱きしめ合うのと、手を深く組み交わして握手するのって、なんだか似ているなと思う。

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吸う、吐くという動きは肺が膨らんだり縮んだりする。
それに伴って肋骨、背骨、首、頭、骨盤などなど、からだ全体が緩やかに伸縮して全身に息や血を循環させていく。
私たち、実は緩やかに、ずーーーーっと動いている。

「いき」は漢字で「息」と書く。
身体運動、生存するための運動としての呼吸でもあり、形のない、私という人間の「心」の比喩でもある。

他者と息を合わせるっていうのは、吸う吐くのタイミングを合わせるだけでなく、心を合わせるということなのかなと思う。
言い換えれば、相手の心に自分の心を寄り添わせていくこと。

息はまだまだ掘り下げていきたい行為のひとつ。
言葉を発語する感覚とか、それ以前の口内運動とか、息が形作るものをこれからも洞察し続けたい。

写真

上段二枚
「息をまめる」ダンス甲東園2017

下段
芦谷康介と高野裕子 アトリエ公演vol.1

撮影:高橋拓人

高野 裕子

高野 裕子

踊り手・振付家
1983年生まれ
関西を拠点に活動しています

Reviewed by
舩橋 陽

高野さんの息についての話を読みながら、楽器の演奏についての事を思う。

管楽器は息で繋がり操る楽器だからなのか、自からの器官の延長上の存在の様な感覚があり、主観の道具に思える。対して、弦楽器や鍵盤楽器は、楽器という他者に手で触れ、働きかけて操る様な客観の道具に思える。

最も多用している管楽器としてのサキソフォンについては、「指で操作する、延長された自分の喉の拡張装置」というイメージがあって、自身との接続性がダイレクト過ぎるがために、操作に関する微細な様々が乱れとして現れてしまいやすく、楽器に働きかけるというよりも、制御の元側である自身からの呼気を抑制する意識づけや訓練に、手始めの頃には注力した記憶がある。さすがに長年やっているので、現在では無意識に、演奏のための呼気の流し方を行なえる様になった。

逆に考えると、息というのは、普段、自分で想定している以上に、自からの状態が映りやすいものなのかも知れない。
そして、楽器の対としての自身の内側では、こんな事が起こっているのだ。

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