駅前のファーストフード店には、喫煙席がまだ残っていた。「ランチタイムは禁煙」という扱いにはなっていたものの、ガラス戸で仕切られたそのエリアには常に見えない煙が充満しているからか、お昼時は滅多に客の入らないスペースになっていた。あの日はそこに珍しく、一人の母親と一人の娘が座っていた。
母親は一番奥の窓側のソファ席に腰かけ、手鏡代わりのスマホを覗き込みながら、入念に眉を整えている。その向かい側の大きな椅子には、おそらく幼稚園の年長さんくらいかと思しき娘がいる。しなしなになったポテトを遠慮がちに口に運びながら、その小さな手には長すぎる鉛筆をギュッと握って、何かの問題集のようなノートとにらめっこをしている。何かを書こうとしてはためらい、また書こうとしてはためらい、答えがわからないことがもどかしいのか、身体を前後に揺らし始めた。
「ねえ、ちゃんと集中してやって。もう時間ないのよ」
娘の動きに机の振動で勘づいた母親は、スマホから目は話さず、アイラインを引く手も止めず、自分の不機嫌さを一切隠さず、温度のない声で言い放った。張り詰めた空気の中、娘の揺れはさらに振れ幅を増したが、母親は慣れた動作でテーブルをバンと一回叩いてそれを制した。
「ここ、わからない」
「なんでわからないの?」
母親は娘のノートを見る前にまずそう言って、それから一瞥して、また目線をスマホに戻した。
「お正月はお餅で、雛祭りはあられで、子どもの日は何って聞かれてるんでしょ? 規則を考えればわかるでしょ?」
娘は顔中の筋肉をぎゅっと強張らせたように表情を歪めた。いまにも泣き出しそうだったが、けれども、彼女は泣かなかった。お腹にギュッと力を入れるように前かがみになった。モスキート音のようにか細いうめき声を漏らしながら、感情に身体が支配されないよう、必死で耐えているようだった。
チークの塗りに満足した母親は、スマホを一旦テーブルの上に置いた。そして、うつむいて動かなくなっている娘と、進んでいないノートを見下ろして、大きくため息をついた。
「じゃあこれ、もうおしまいね。はい、もうやらないくていいよ」
そう言って、ノートをさっと引き抜いて、乱暴に自分のバッグにしまった。
「えっ、なんで? やるから。ママ、ちゃんとやるから」
娘は焦ったように椅子を立って、向かいのソファの母親の元にすがり寄った。
「もう時間切れです。あなたが集中しないから悪いの」
母親は、スマホの画面をカメラの自撮りモードからインスタに切り替えた。その視界の中に必死に入ろうと、娘は母親のひざ元に手を乗せて揺すった。
「ねぇ、ママごめんなさい。ちゃんとやるから。怒らないで。ニッコリして?」
ママ、怒らないで、ニッコリして。壊れて同じセリフばかり勝手にリピートするおもちゃの人形のように、その言葉を繰り返す娘を、母親はあきれ気味に放置した。母親がようやく娘と目を合わせたのは、娘が彼女のブラウスの袖を掴み、引っ張ろうとした瞬間だった。
「やめて。ママを困らせたいの?」
娘は固まった。一瞬時が止まって、それから、すでにたっぷりと潤んでいた瞳から、とうとう涙がこぼれ落ちた。それでも、泣き声は上げない。これ以上ママを困らせたくないという一心だろうか、こみ上げる悲しさや悔しさにふたをして、鼻をすすりながら、「にっこり、して」と、もはや声にもならない音の震えで訴え続けている。母親は忙しなく、それが何よりも優先すべき急務であるように、スマホを指で撫でている。
程なくして、母親が席を立った。バッグに手をかけ、テーブルに載っていたふたつのトレイを持ち上げ、喫煙ルームの外にあるゴミ箱に向かってカツカツと歩き出した。何も言わない母親の後を、娘は黙って、ピッタリとくっついていった。食べかけのポテトと、紙に包まれたまま手つかずのハンバーガーを、ゴミ箱は静かに飲み込んだ。
それから一人の母親と一人の娘は静かに店を出て、そうするのが規則であるかのように手を繋いで、人の流れに消えていった。店の外は柔らかい春の陽気に満ちているらしく、商店街を行きかう人々は、ガラス一枚を隔てて眺めると、みな等しく幸せそうに見えた。