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2F/当番ノート

あわいを問われる《最終週》

当番ノート 第50期

一周忌を終えると、一般に「喪が明ける」と言われている。

ずっとどこかで父のことをじゅくじゅくと考えていた1年だったので、いざ喪を終えるとなると、なぜか少し焦った。もう喪に服さなくていい、ということは、父にかまけず晴れ晴れと生きていかなくてはいけない合図のように思えた。どのように振舞っていたんだっけ、父が亡くなる前は自分はどんなことに興味がある人だったんだっけ、と思い出そうとする。

でもそれは、難しかった。

父が初めて入院したときから、2年経つ。病気と闘った1年と、いなくなった事実に静かに対面した1年。どちらも、同じくらい父のことを考えて過ごした1年だった。いなくなったのは一人なのに、何人もいなくなったかのように、たくさんの人が別々の理由で悲しみ、直接関係ないはずの、私自身を取り巻いていた世界の様相が変わっていった。

でもきっと、変わっていったのは私の方なのだ。

もうまわりにいる人たちが当たり前にいる明日を、無邪気に信じることはできない。昔、恋人が教えてくれた「だから、今生きている人が、精一杯生きなきゃいけないんだよ」という一言を噛み締めている。もう2年前の自分には戻れないのかもしれないし、戻らなくてもいい気がしていた。

誰かの死に関する話題に口を噤みがちなのは、それがあまりにも多層だから、言葉では全然伝えられないし受け取れない、と感じるからなのかもしれない。話したら話しただけ、抜け落ちた出来事や感情が気になる。そうやって、うまく言語化できず、整理整頓もつけられない、もんやりした灰色の塊を懐の中に在り続ける。それを持ち続けなければならない、不安やしんどさ、でも同時にそれでも生活を進めることができている、自分の強さ。そうゆうバランスに支えられる日々が、きっとこれからも続いていく。

誰か死に対して私たちはとても無力だけど、例えば友達とLINEで長電話したり、アイドルにはまったり、1カケ800円もするケーキでお茶したり、旬な野菜をとって食べたり、野良猫をかまったり、恋人と手を繋いだり、仕事に没頭したり、日常の中にある小さな煌めきと手を取り合いながら、大きな波をしなやかに越えていくことができる。遍く強くあることはできないけれど、弱くあり続ける歪曲した強さを持っている。

それが、希望なんだと思う。

多村 ちょび

多村 ちょび

ウェブディレクターや編集の仕事を経て、都内の小さな団体で広報をしています。ときどき田舎の実家に帰り、人々や生き物を観察して、その様子を綴っています。最高の休日の過ごし方は、散歩→銭湯→喫茶店で本を読んだり日記を書いたり→家に帰ってまぐろをつまみにビールを飲みながらお笑いを見る、です。

Reviewed by
向坂 くじら

死の不可逆性は、そのまま、死別の不可逆性へとつながる。喪う前にはもうどうしても戻れないとして、では、どんなふうに喪失を抱えて暮らしていこうか。
多村さんは、けっして無理やり答えを出そうとはしない。しずかに悩み、しずかに考え、そして、しずかに変化する。それもまた、不可逆な変化だ。

喪ったあとの日々はどうしようもなく続いていく。それはもちろんさみしくて永くもあるけれど、同時に、「続いていく」ということ自体を、ひとは希望に変えることができることがあるのだ。

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