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2F/当番ノート

事実と物語の間で

当番ノート 第50期

春夏秋冬というが、冬から春に明確に変わったなと思える日が好きだ。そう、一つネジが動いたなという感じで嬉しい。2020年春。あまり春が好きと感じたことはないのだが(どちらかといえば新緑の美しい5月の方が記憶に残っている)私の誕生日は4月。人生のネジもこの月に動く(正直このネジは動いて欲しくないなと思える年齢に達してしまった)。
地球の時点のスピードは少しずつ遅くなっているみたいだが、宇宙レベルの変化に関係なく私の1年は年々早くなっているようだ。もっと歳をとったら子供の時の1ヶ月の感覚で歳をとるようになってしまうのか。どんどんビュービューしてくる。

前回少しだけ書いたタンポポの描写はもちろん「死」のメタファー。その時は多分選べないのだろうが、自分はその時は春であってほしい。春の陽光の下で風が吹く感じ。タネのように自分の作ったものが生の先にも続いていく瞬間はこうでなくっちゃと思ってしまう。

まあ、甘美な空想だ。しかし甘美は甘美でしかない。内実をつくるのは全然逆で、こうぎゅーと締め付けられながらあがき出して、執着と怒りであーでもなくこうでもなく彷徨う感じ。全然甘美じゃない。でもやらなきゃタネはできないのだ。まあ、頑張って生きていこう。

今日もタンポポは風に揺れている
糖質制限ダイエットも始めてみようかな。

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ひまわり運動

表紙の写真を提供させて頂いた李琴峰さんの「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んでいる。コロナの影響で配送してもらうはずの郵便局が閉まってしまった影響でやっと手に取れた本。

予備知識なく、恋についての物語として読み始めたので、ある章でひまわり運動の描写が出てきたことに正直、驚いた。驚きと同時にどんどん引き込まれる。そこに至るまでにすでに引き込まれていたが、このとても政治的な事件の舞台の中で紡がれる物語は本当に考えもしないところを突かれたような感覚だった。

台湾について私は何を知っているのか?自分が知っていると思っている世界の外にも人と人が生きているのだ。自分の内側から静かに問われているような、少し胸をおすようなものを感じる。人の生と政治が切り離された国で生まれ育ったせいだろうか。凡庸な言葉だが、この本は読むべき本、読みたい本だと納得する。その本の表紙に自分の作品が採用されたなんて、なんて幸せなことだろうか。

私はもともと「物語」が好きではない。ティーンの時とかもニュースやドキュメンタリーばかり観ていた。(現実から一歩離れたアニメは別として)一応ちゃんと観たと記憶しているテレビドラマは「王様のレストラン」くらい。それも物語で感動したというよりは一緒に観ていた祖母が感動し泣いてる姿に「なんで作り物で泣くのかな」と感じたことが心に残っているからだ。

「物語はつくりものであり、事実ではない(だから私の生に関係ない)」。その氷のような認識が少しずつ変わっていったのは自分自身が作品的なものを作り出してからだ。特に写真に穴を開けて光を通す作品をつくり始めた時。写真という絶対的な事実に対して光の空白をあがつことを始めた時だった。


当初、なぜ穴を開け光を通したのか、自分でもわからなかった。しかし考えていく中に、この光の空白は人にそれぞれの物語を挿入する余白なのだと思い至った。事実や記録はどこまでも事実で、それ自体はそれぞれの生に寄り添わない。しかし、それが一人一人の持つ物語と接続することでその人の生に意味のあるものとして存在できる、その思い至りが物語への自分の気持ちを変えていったように思う。

ひまわり運動に話を戻そう。
この章を読んで、wikipediaを読んだ。ああ、確かに数年前にYahooニュース等で見たなと思い出す。中国との交流を巡って国会が占拠された事件。確かに自分はそれを知っていた。しかし、知識はどこまでも事実で以上のものではない。事件と政治はデータに絡め捉えれ、単純に「そういうこともあったよね」で終わってしまう。しかし、本質は人なのだ。それまで「みえていなかった」人に至るために、縁もゆかりもない自分が到達するために物語が必要なのだ。

「ポラリスが降り注ぐ夜」はまだ読み始めたばかり。これからまたページをめくっていくことが楽しみでならない。


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レーザーカッター


最近レーザーカッターが欲しい。全自動でデータを入れたら切ってくれるヤツ。私は手が器用な方だからこうした機械には全然興味がなかった。細かい切り込みも手で入れることとができる。それに満足してここ数年はそのスリットの作品をつくっている。しかし一方で本当に最近だが、物語を込めずに切りたいという思いが出てきた。手だと絶対的に「物語」が込められていく。スリットのカーブにも間隔にも仕損じにも私の指先から生まれる以上物語が付与されていく。

物語を込めたいからずーっと手で切ってきし、これからも手を使いたいが、一方で「物語の混線」が気になってきた。例えば光を通した写真にスリットを入れるとどこかしら絡まった感じがある。これはこれで好きだが、やはり込めすぎも良くないかなと考え始めた。でもこの方向でいろいろ組み合わせたい。そう考えた時にレーザーカッターなら物語を込めずに切ってくれるのではないかと思えたのだ。表現は過剰を欲するゆえに過剰にする要素はシンプルにしておきたいのだ。



レーザーカッターが事実で、物語が私の手。世界はそんな感じできているのだろう。

写真集の話をすると言って、あまり書けなかった。続きは次回。

澄 毅

澄 毅

写真で作品をつくっています。
文章を書いたり、ドローイング的なことも好きです。
1981年に京都と大阪の境で生まれ、12年東京に住んでからパリに在住。
2012年に写真集「空に泳ぐ」(リブロアルテ)を出版。
2019年には二番目の写真集として「指と星」(リブロアルテ)を出版
マイペースな時と締め切りに追われる繰り返しに平穏を感じています。

Reviewed by
鈴木 悠平

自分には関係ないと思っていた「外側の世界」に、気づかぬうちに連れて行ってくれる。

別々の人生を生きてきた<わたし>と<あなた>が束の間、重なり合う。

物語は、私たちが抱える「空白」を通る、かすかな光だ。

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