娘へ。 きみの撮るわたしはやっぱり盛れてない。
普段どれだけ美化して撮影しているのかがよく分かる。
わたしが女じゃなければこんなに写真映りに一喜一憂しなくて済んだのかなあ、と思ったことも少なくない。
ルッキズムの呪いは、生まれる直前に「おまえは女の子?じゃあ、はい。これも持っていきな」と神様に持たされてしまったんだろうか。
きみの性別が女の子だと分かった時、わたしは少しの恐れを感じずにはいられなかった。
「上の子が男の子だったから今度は女の子だといいね」と声をかけられるたび、「いえ、どちらかというと男の子がいいです」と答えていた(ごめんね)。
女に生まれて良かったと思える場面が、わたしの場合はあまり多くなかったから。
バイト先の男性社員が、女子学生の顔や体型を笑いのネタにしていたとき。
父親くらいの年齢のパワハラ上司に、皆の前で頭を下げさせられたとき。
営業成績がわたしの半分以下の男性の先輩が、わたしより先に出世したとき。
わたしは自分の性を誇ることができなかった。
とりわけ一番恐れたのは、母と娘という独特の関係性だった。
わたしの祖母と母は、ピーナッツ親子。べったりと依存し合う関係をそんな呼び方で揶揄するらしい。
血縁で、宗教で、かたく結ばれた二人の絆を目にするたび孫の立場であるわたしはいつも疎外感を感じていた。
私にいつか娘ができたら。
あの二人みたいにべったりと生きるのは嫌だ。
でも私と母のように距離のある関係になるのはもっと嫌だ。
その二択しかない自分が悲しい。
だからまだ見ぬきみを思って大きなおなかをさすりながら、わたしは形容しがたい不安も一緒に自分の体内で十月十日育てた。
*
あと6,7年すると、きみは自分が女性であることを強く、いやおうなしに強く自覚することになる。
女性には月経という体の自然な現象があって、きみもきっとその時が来たら、股から血が出る。
普通は”それ”が来たらまず女親に報告するのだけど、わたしは月経が来ても母に言えなかった。
いつも祖母と母が交わす女性特有の湿った噂話を聞いていたから。
「この二人に、わたしに月経が来たことを話題として消費されたくない」
なぜかそんなことを強く思った。
けれどもむやみに流れ続ける血に、困った私は中学の担任の先生に話した。
でも先生は私よりもっと困った顔をした。
「そういう大事なことはお母さんに言いなさい」
*
いつかきみにその日が来たとき、わたしはどんなふうに応えるんだろう。
「そこから血が出るってことはつまり女だね」なんてハッキリ伝えて、きみに必要以上に性をまざまざと自覚させてはしまわないだろうか。
分かってる。冒頭のルッキズムの呪いについてはわたしがせっせと丁寧に培った被害妄想だし、そもそも神様はたぶん、これから産まれゆく命に対して「おまえ」なんて呼び方はしない。
きみのママは胡散くさいストーリーテラーだから、きみに面白おかしくそんな話をしてしまうかもしれない。ていうか、する。たぶん。だから冗談半分に聴いていて。
本当のところは、大丈夫。
痛みと不快感を伴うけれど、女性であることはおそれなくていい。
女性という対象できみを見てくる輩も現れるかもしれない。そんな時は黙り込んでいいし、無理に笑わなくていい。
きみが子供だから、きみが女だから守るんじゃない。
大人になってもどの性で生きても、わたしはきみを守るよ。
そしてこれは全て、少女だった頃の自分が母に言われたかった言葉だということを、どうか許してほしい。
*
股から流れる血に多くの名前があることを大人になってから知る。
「月経」「不正出血」「着床出血」「おしるし」、どれも種類が違うことを今なら説明できる。
でもおかしいよね。全部同じ、股から出る血です。
女性の体という容れ物はおかしなことばかりです。
6歳のきみがいつか、下腹部を巡る血によって自分の性を知るとき。
女性は弱者で、美しさが全てで、男性の評価によってしか生活できない生き物だと誤解しなくて済むように。
そんな社会であるように、今わたしができることを一つずつ探していくね。
まずはわたし自身が、女性ってすばらしいでしょう?と、女性であることを誇ってねと、
偽りなく伝えられるように。
きみのためにわたしが早く変わるから。
そういう話を私は今日、運転しながら15分くらい話したけど。
きみはなんにも興味のなさそうに鼻歌を歌っていた。