まだ「美」について確かな感覚のないきみは、まつげの量や眉の形や唇の厚さなどどいうものを全てすっ飛ばして、わたしに似たがる。
美人になりたいとか大人になりたいとかそんな動機は抜きにして「ママがいい」と言う。
年に何度かしかないお父さんのお迎えで、保育園の先生に悪気もなく「あら、お父さん似だったんだね」と言われたきみが、金切り声をあげて拒んだと聞いた時は涙が出るほど笑ってしまった。
同時にふと思った。どうして、「母親に似たがる」のだろう?
今のわたしが、わたしの母親に顔を似せたいと思うことは全くないのに。
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変わっていくものと、変わらないものがある。
女性の容姿は前者のカテゴリに入りがちだ。
実家のマンションの階下に、バイオリンを習っている女の子が住んでいた。
その子はわたしの5、6個年下だったのだけど、幼い頃から品のある喋り方をしていて、その特徴ある語尾は彼女のお母さんによく似ていた。
数年ぶりにその子を見た時は驚いた。
彼女が、茶色に染めた縦巻きのロングヘアを指でいじりながらマンションのエントランスであぐらをかいていたから。
驚きのあまり母親に「さっきのギャル、〇〇ちゃん?」と尋ねると母は車のエンジンをかけて「あ~」と言った。
「変わったよねえ。親御さん悲しんどると思うわ」
何も言えなかった。「変わること」は、まるで罪のようだった。
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成人式の後に繁華街の居酒屋で友人らと集まった。出身中学の同じメンバーが50人以上揃った。
気づけば「誰がどのくらい変わったか」の話題で持ち切りだった。
「あの子、めっちゃ痩せたよね」
「あの子、大学デビューらしいよ」
「あの子、整形?アイプチ?」
退屈だった、とても。さわがしくて空っぽな時間。
一方でわたしに向けられる「変わらないね」の一言は誉め言葉か貶し言葉か分からない。
あの頃のわたしたちといったら、他人に突き付けられた「美」に振り回されては先を越していった誰かをやっかみ、「変わったこと」を努力とは決してみなさなかった。
変わりたい、美しくなりたいという他人の意思を誰ひとりとして尊重しなかった。
大人になった今思うのは実にシンプルな話で。
「変わること」に関して敏感で懐疑的だったわたしたちは、ただ「変わらないまま置いていかれること」をおそれていただけなのだ。
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娘へ。「外見より中身が大事です」的な、ありきたりなことを言われると思った?
だとすれば少し違います。きみが「外見を変えたい」と思った時はメイクもファッションも好きにしたらいい。
それらも表現方法の一つだから存分に楽しんでね。
変わっていくものと変わらないものがある。
街のはずれにある古き良き建築物だって、変わらないものを体現しているように見えるけど、本当はお金をかけてメンテナンスをして老朽化を防ぎ「変わらないもの」として演出されているんだよ。
そう考えると、変わっていくことの方がよっぽど自然な気がするね。
ここからは本音の話。
わたしは今のきみが好き。6歳のきみが好き。大好き。
ほんとうは一つも変わってほしくなんてない。
決して大きくはない、つりぎみの目も好き。丸っこい鼻も少しだけズレた前歯もそのままがいい。
でもきみはきみのもの。わたしのものじゃない。
6年前の夏のはじめに、きみはわたしの体から分裂していって切り離された別の個体になった。
きみが生まれたあの日から、もうすでにわたしはきみを失っているのだ。
だからもしもわたしがきみが変わることを拒んで無茶なことを言い出したら、その時はわたしを叱ってほしい。
もしもわたしがきみを所有物かのように勘違いしていたら、その時は勇気を持って正してほしい。
わたしはきみが好き。でもわたしときみは違う人。
きみはきみのもの。きみの心も体も、きみのもの。
きみが変わることを寛容に受け入れる母親になりたい。
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今日も鏡の前の占領して、きみは熱心に自分を見つめている。
顔を洗って歯磨きを済ませても、どいてはくれない。キッズコスメの数々を器用に持ち替えては、色付きのリップクリームを塗ったり爪に色をのせたりして、より一層スペシャルな自分へ変身しようとしている。
「ママになりたい」と選んだわたしとおそろいの赤色のネイルも、そのうち手放して「ママじゃない誰か」へ理想を求めて変化していくんだろう。
ひょっとしてこれは、きみからの挑戦状かもしれないな、と思う。
きっと、きみすらも要らぬ要らぬと捨ててしまう「きみらしさ」をわたしが拾いあげられるか試されているのだ。
ならばこれからどれほど姿かたちが変わっても、その中に必ず残る「変わらないもの」を母親のわたしが見つけることにしよう。
きみが変わっていくことを寂しく思うよりも、大好きな今のきみの姿を余さず覚えておく方が、わたしがすべきことなのだと今分かったよ。
そんな決意を胸に宿した時、見慣れた小さな後ろ姿が少しだけ滲んだ。