東京の下町を歩いていると、活気ある商店街を抜けたその先に、いくつもの空き家が密集している場所があった。近くを歩いている初老の男性に話を聞くと、建物の老朽化でほとんどの住人が出て行ったとのことだった。
残っているのは、建物の一部は破損し、ドアも「立ち入り禁止」と書かれていながら開いたり閉まったりを繰り返し、窓ガラスは割れていて、管理されないまま放置された植物が生い茂る、無数のアパートだけである。
管理人の許可を得て、いくつかの建物を見せてもらえることになった。開いたままになっている入り口から中をのぞいてみると、一切の家財もなく、電気・水道・ガスも通っていない、空洞化した「家」がそこにはあった。朽ちた襖から部屋の奥を見ると……言い忘れていたが、時間帯は夕方だったため、電気のない空き家を照らす光は懐中電灯だけだ。夕日もほとんど差し込むことのない部屋は、色彩を失い、おびただしい暗闇に塗り潰されている。
その家は、かつて家であったことを思い出すかのように、ときどき、軋むような音を鳴らし、ほのかに畳の匂いを漂わせる。柱に刻まれている人間の成長の記録は、声高に、この家には人が存在していたということを私に教えてくれる。
蜘蛛の巣が張り巡らされたキッチンには、捨てるのを忘れたまま立ち退いたからなのか、からの食器用洗剤がぽつんと置いてあり、そうしたいくつかの残滓は、過去と今をリンクさせ、ここがかつて人の暮らす家であったことを忘れかけていた私や、そして空き家そのものにも、想像力を喚起させるトリガーとなった。
夢現のなかで見えたのは、この家に住んでいた家族の姿であり、数十年にも渡るときの流れでもあった。私は、ほんのわずかな時間にもかかわらず、この「家だったもの」が年老いてゆく時間を、ともにしたような錯覚を持った。
巡る季節や年月を住人不在で過ごす、かつて家だった何かは、私たちと同じ時間軸にいるにもかかわらず、「時間」という概念からは切り離され、取り壊されるまでのしばらくの間、時間とは無縁の世界を生きる。
老いて朽ちたアパートはほとんど誰からも関与されることなく、いずれは家であったことを思い出すこともできないまま、ひとり、老後を過ごし、死んでいく。
仮に……誰かがそういった家の玄関に入り、扉を閉めるとする。すると、不思議な感覚に包まれるだろう。外から聞こえるのは、人々の「生活」の音や、商店街の賑わい、観光客の声、どこかから聴こえてくる音楽である。
一方で、室内といえば、家だったころの面影が微かにあるものの、人もいなければ、音もしなければ、誰かが暮らしていることもない。ご飯を炊くことも、入浴中のシャワーの音も、そこにあったであろう、すべてのものが失われているのだ。外では今、そして未来の時間すらも流れ、室内には過去の時間がたえず流れ続け、個々人にとってのトリガーを見つけない限りは、現在や未来と繋がることはない。
「ドア」という境界は時間をウチ、ソトに分けることのできる装置であり、それは空き家でなくとも同様に、室内では時間を過去へと繋ぎ、屋外へ行くために開けば現在や未来を見せてくれる。こうした境界も、いずれ朽ちてしまえば老朽化したアパートさながら、「生」と「無」を作り出し、もう中に入ることもできなくなる。
このような立ち退きによって、住人のいなくなった家が日本に数多あることを忘れてはいけない。やがて死ぬまで老い続ける家にとって、エイジングに抗うすべはなく、孤独とともに死へ向かう。そんな家が、この国にはたくさんあるのだ。