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2F/当番ノート

凪子#2

当番ノート 第56期

2 凪子の人形

 僕が凪子と出会ったのは、凪子が四歳の時。僕はデパートのおもちゃ売り場の、ガラス棚の中で微笑んでいた。たまたま立ち寄った凪子の一家が、僕を買い取っていったのだ。当時の凪子はミディアムヘアで、黒曜石みたいにキラキラした眼を持っていた。とても綺麗な眼だった。僕は彼女に見つめられた瞬間、背筋がゾクッとしたくらいだ。

「ねぇ、ママ。私、この子がいい」

「本当にいいの?」

「うん。この子がいい」

「じゃあ、お年玉で買うからね」

「うん」

 母親は店員に声をかけようと、辺りをキョロキョロと見回していた。

「あなたは、私のものになるんだからね」ニッコリ笑いながら、凪子は言った。「私、凪子っていうの。あなた、クマのぬいぐるみなんでしょ。綺麗な眼。まるで生きてるみたい。毛もフサフサで素敵。茶色いから、茶色くんって呼ぶね」

         ◯

 凪子は自室に入ると、まずソックスを脱ぎ捨てる。真っ黒な長いソックスを、腰をかがめて脱ぎ、室内のテキトーな場所に放り投げるのだ。そしてスカートを脱ぐ。何重にも巻いて、ギリギリまで短く履いていたスカートを脱ぐ。それは、花びらが落ちるみたいに、はらりと床に広がる。次に、凪子はシャツを脱ぐ。ボタンを一つ一つ外して。さなぎからかえる蝶のようにも見える。その真っ白な繭の中から現れたのは、透けるような淡色の素肌と、まろやかな乳房を包む水色のブラジャー。凪子はそのブラジャーを外して、衣装タンスから引き出してきた、上下真っ黒のスウェットに着替える。ドレッサーの前に座って、コットンでメイクを落とし、最後にヘアゴムを外せば、ようやく、凪子は自宅モードに入る。

 凪子がベッドにダイブする。彼女の癖だ。枕元の定位置に座らされている僕は、その振動で倒れてしまった。世界が横になる。

 凪子の部屋。綺麗に整頓されていて、脱ぎ捨てた制服たちが目立って見える。

 すやすやという静かな音が聞こえる。凪子が寝ているのだ。今日は相当、疲れたのだろう。

         ◯

 凪子は外面がすこぶるいい。家族や友人、そういう、気を許している人間にすら、本当の自分を見せることがない。理想の娘。理想の友人であろうとする。それが凪子だ。その分、自分の部屋では、檻の中のライオンのように振る舞っている。

 凪子が七歳の頃だった。小学校から帰宅した凪子は、ランドセルをおろすやいなや、その中身を全部ぶちまけた。教科書やノートが部屋中に散らばる。凪子の息が荒れていた。

 しばらく佇んだ後、凪子は僕の首をひっつかむと、壁に思いっきり投げつけた。ダンっ。鈍い音。僕は床に転がった。凪子は相変わらず、ハアハアと息を荒げている。外は曇っていて、かすかな自然光が部屋に差し込んでいた。

 凪子が、一歩、二歩と、僕に近づいてくる。そして、僕を抱き上げると、ワァと泣き出した。そのままずっと泣いていた。何があったのか、僕には到底わからなかった。ただ、それ以来、凪子は僕と遊ばなくなった。

         ◯

「ツトムくんにね、お下がりでいいから、何かおもちゃをあげようと思うのよ。ほら、あなたの部屋の押入れ、おもちゃの箱があったでしょ。もう遊ばないんだし、あなた最近、服も増えたし、あげちゃっていいでしょ?」

 凪子のママの声が廊下から聞こえてきた。凪子が部屋に戻ってくる。押入れのドアを開け、中から、段ボール箱を、一個、二個、三個と取り出す。その箱の中には、人形やらおままごとセットやらがぎっしり詰まっているのだ。言わば、凪子の少女時代が、ぎっしり詰まっているのだ。それらを取り出すと、凪子は、僕の方を向いた。変な眼をしていた。憐れむような、躊躇するような、変な眼だ。僕は嫌な予感を感じながら、ただじっとしているしかなかった。凪子がゆっくりと近づいてきて、僕を掴んだ。何度、その手に包まれたことだろう。僕は昔の凪子を思い出して、懐かしくなった。凪子の少女時代を知っているのは、僕たちおもちゃだけだろう。大人は知らない、友達だって知らない、凪子の少女時代。

 凪子は僕を、段ボール箱の中にそっと入れた。本当にやさしく、そっと入れた。そして、悲しそうな変な眼で僕を見つめながら、箱の口を閉じた。

 僕は凪子に捨てられた。

七瀬 薫

七瀬 薫

大学生。
小説家。

Reviewed by
マスブチ ミナコ

人には誰しも、外の顔と内の顔があると思う。そして、外ですごく頑張らなくてはいけない人、それをつらいと言えない人。
「ぬいぐるみ」というものは、どうしてこんなに優しくて、人をゆるしてくれる存在なのだろうか。

凪子の「内の顔」を見ることができないように、人はぬいぐるみの視点を持てない。
ぬいぐるみも、凪子の「外の顔」を見ることができない。
だからこそ凪子は茶色くんに泣きついたり抱きしめたりできるのだけれど、
本当に「自分の全ての顔」を知っているのは、どうしたって凪子自身だけなのだと思う。

なぜ大人になる時期を自分で決めることができないんだろう、とわたしはよく思う。
大きくなったから、周りに小さい子がいるからって、自分の中の子どもの部分がなくなるわけじゃない。
自分の素顔でいられる場所が得られるとも限らない。

七瀬さんの文章で胸がキュッとなった。
今これを書きながらデスクにいるぬいぐるみ、布団にいるぬいぐるみたちに、わたしは全部名前をつけている。
年齢としてはとっくに大人だけれど。
小学生の頃、手放せなかったぬいぐるみと離れたのも「林間学校に行くから笑われてしまうかもしれない」と思ったことだった。
持ち歩きすぎて色がくすんだあの子を思い出す。
茶色くんの色味も、きっともっと深くなっていたのだろう。
凪子の内の顔を見つめる「新しい誰か」は、誰なのだろうと、捨てられたと感じながら想像するのだろう。

大人になったら飲めると思っていたブラックコーヒーは、未だにちっとも飲めない。
そうやって自分の大人像を描いたのは自分自身だったけれども、
他人に押し付けられがちな「大人」よりよっぽど気が楽だ。凪子は茶色くんのいない、どこで泣けるのだろう。

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