2 凪子の人形
僕が凪子と出会ったのは、凪子が四歳の時。僕はデパートのおもちゃ売り場の、ガラス棚の中で微笑んでいた。たまたま立ち寄った凪子の一家が、僕を買い取っていったのだ。当時の凪子はミディアムヘアで、黒曜石みたいにキラキラした眼を持っていた。とても綺麗な眼だった。僕は彼女に見つめられた瞬間、背筋がゾクッとしたくらいだ。
「ねぇ、ママ。私、この子がいい」
「本当にいいの?」
「うん。この子がいい」
「じゃあ、お年玉で買うからね」
「うん」
母親は店員に声をかけようと、辺りをキョロキョロと見回していた。
「あなたは、私のものになるんだからね」ニッコリ笑いながら、凪子は言った。「私、凪子っていうの。あなた、クマのぬいぐるみなんでしょ。綺麗な眼。まるで生きてるみたい。毛もフサフサで素敵。茶色いから、茶色くんって呼ぶね」
◯
凪子は自室に入ると、まずソックスを脱ぎ捨てる。真っ黒な長いソックスを、腰をかがめて脱ぎ、室内のテキトーな場所に放り投げるのだ。そしてスカートを脱ぐ。何重にも巻いて、ギリギリまで短く履いていたスカートを脱ぐ。それは、花びらが落ちるみたいに、はらりと床に広がる。次に、凪子はシャツを脱ぐ。ボタンを一つ一つ外して。さなぎからかえる蝶のようにも見える。その真っ白な繭の中から現れたのは、透けるような淡色の素肌と、まろやかな乳房を包む水色のブラジャー。凪子はそのブラジャーを外して、衣装タンスから引き出してきた、上下真っ黒のスウェットに着替える。ドレッサーの前に座って、コットンでメイクを落とし、最後にヘアゴムを外せば、ようやく、凪子は自宅モードに入る。
凪子がベッドにダイブする。彼女の癖だ。枕元の定位置に座らされている僕は、その振動で倒れてしまった。世界が横になる。
凪子の部屋。綺麗に整頓されていて、脱ぎ捨てた制服たちが目立って見える。
すやすやという静かな音が聞こえる。凪子が寝ているのだ。今日は相当、疲れたのだろう。
◯
凪子は外面がすこぶるいい。家族や友人、そういう、気を許している人間にすら、本当の自分を見せることがない。理想の娘。理想の友人であろうとする。それが凪子だ。その分、自分の部屋では、檻の中のライオンのように振る舞っている。
凪子が七歳の頃だった。小学校から帰宅した凪子は、ランドセルをおろすやいなや、その中身を全部ぶちまけた。教科書やノートが部屋中に散らばる。凪子の息が荒れていた。
しばらく佇んだ後、凪子は僕の首をひっつかむと、壁に思いっきり投げつけた。ダンっ。鈍い音。僕は床に転がった。凪子は相変わらず、ハアハアと息を荒げている。外は曇っていて、かすかな自然光が部屋に差し込んでいた。
凪子が、一歩、二歩と、僕に近づいてくる。そして、僕を抱き上げると、ワァと泣き出した。そのままずっと泣いていた。何があったのか、僕には到底わからなかった。ただ、それ以来、凪子は僕と遊ばなくなった。
◯
「ツトムくんにね、お下がりでいいから、何かおもちゃをあげようと思うのよ。ほら、あなたの部屋の押入れ、おもちゃの箱があったでしょ。もう遊ばないんだし、あなた最近、服も増えたし、あげちゃっていいでしょ?」
凪子のママの声が廊下から聞こえてきた。凪子が部屋に戻ってくる。押入れのドアを開け、中から、段ボール箱を、一個、二個、三個と取り出す。その箱の中には、人形やらおままごとセットやらがぎっしり詰まっているのだ。言わば、凪子の少女時代が、ぎっしり詰まっているのだ。それらを取り出すと、凪子は、僕の方を向いた。変な眼をしていた。憐れむような、躊躇するような、変な眼だ。僕は嫌な予感を感じながら、ただじっとしているしかなかった。凪子がゆっくりと近づいてきて、僕を掴んだ。何度、その手に包まれたことだろう。僕は昔の凪子を思い出して、懐かしくなった。凪子の少女時代を知っているのは、僕たちおもちゃだけだろう。大人は知らない、友達だって知らない、凪子の少女時代。
凪子は僕を、段ボール箱の中にそっと入れた。本当にやさしく、そっと入れた。そして、悲しそうな変な眼で僕を見つめながら、箱の口を閉じた。
僕は凪子に捨てられた。