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2F/当番ノート

凪子#8

当番ノート 第56期

  8 凪子の男(後編)

 凪子と、将来の話をしたことがある。大した内容ではない。将来は何処に住みたいとか、どんなふうに生活したいとか、死ぬまでに一回はキャビアが食べてみたいだとか、そういう、他人からすれば本当にどうでもいいことを、俺たちは本気で話し合っていた。

「でも、将来は結婚したいな」俺は呟いた。

「うん。わたしも。いつかは」

「なあ、俺たち、結婚しないか?」

 その一言を発した時、俺は胸が裂けそうになった。もちろん、本気で言ったわけじゃない。半分は冗談のつもりだった。でも、その一言は何処かプロポーズめいていたから、俺は変に緊張してしまった。

 凪子がクスッと笑う。

「だめだよ」凪子は久々に俺の目を見て言った。「ナラザキナギコになっちゃう」

 ナラザキナギコになることの何がいけないのか、俺にはよくわからなかった。けれども、凪子が笑っていたから、俺も笑うことにした。

         ◯

「凪子」俺は話しかける。

「うん?」

「何か、俺に隠してることないか?」

「ないよ?」

 こんなときにも、凪子は俺と目を合わせてくれない。俺はまた寂しくなって、その寂しさが、苛立ちに変わっていった。

「隠し事されると逆に気になるんだよ。隠してることあるんだったら言えよ」

「何も隠してないよ」

「ウソつくな」

「ウソじゃないって」

 しばらく間ができた。最悪の間だった。

 その時、諦めていればよかったのだけれど、俺はどうしても納得がいかなかった。だから俺は、凪子を尾行することにした。

         ◯

 高校の最寄り駅から、凪子は丸の内方面の電車に乗る。俺は凪子を尾行しながら、嫌な予感を押し殺していた。凪子にバレないように、隣の車両から彼女を観察する。傍から見れば、俺は嫉妬の狼だった。

 凪子は丸の内駅に着くと、改札の外のトイレに入った。俺は少し離れた壁にもたれて、その様子を見ていた。何をしているんだろう、という感情がチラチラと見え隠れした。

 どれくらい経っただろうか。凪子が出てきた。大学生みたいな服を着て、大学生みたいなメイクをしていた。俺は唖然としてしまう。大学生の姿を纏った凪子は、今まで見たことないくらいに綺麗だったから。俺は動けなくなった。動くことを忘れてしまった。

 そのまま、彼女は通路を歩いてゆく。髪をなびかせた凪子が、薄汚い通路に消えていった。

         ◯

 帰りの電車の中で、俺はずっと、揺れるつり革を見ていた。

 トイレから出てきた大学生の凪子を、何度も思い返す。あの姿を見た瞬間、俺は尾行を諦めてしまった。そんなことしなくたって結果は明白だと思った。凪子は最初から、俺にはもったいなかった。凪子には凪子の世界があって、その世界には、俺が入ってはいけないのだ。凪子は、ナラザキナギコになっちゃいけない。彼女は、俺の知らないような世界で、俺には想像もつかないようなことをする。俺は、凪子の邪魔をしちゃいけない。

 ビー玉を大量に飲み込んだような、嫌な感覚が胸にわだかまっていた。

 結局、凪子は、ほとんど俺の目を見てくれなかったな。

 俺は凪子を捨てた。いや、凪子が俺を捨てたのだ。

 俺は凪子に捨てられた。

七瀬 薫

七瀬 薫

大学生。
小説家。

Reviewed by
マスブチ ミナコ

寂しさが、苛立ちに変わっていってもなお、凪子と話をしようとするナラザキ。
そんな彼が初めて見た、大学生みたいな服を着て、大学生みたいなメイクをした凪子。

どうして目を見てくれないんだろう、話してくれないんだろう。
でも、もしかしたら凪子もナラザキとは違った形で、うまく話ができないと思っているのかもしれない。

「ナラザキナギコになっちゃう」
凪子がナラザキに入り込んではいけないと思ったからこそこう言ったとしたら。
それは彼女のナラザキに対する思いの「話」だったのかな。

恋愛をするたび、相手の苗字と自分の名前を組み合わせてイメージしてみたことがあった。
なんか語呂が悪い。同じ文字が続いちゃう。画数が多い…
そこに「もし将来結婚したら」の答えがあるような気が勝手にしていた。
凪子もそうだったのだろうか。
でもそんなこと、きっと言えない。相手にわかってもらえないもの。

ビー玉を大量に飲み込んだような、嫌な感覚が胸にわだかまるナラザキのビー玉をひとつひとつ手のひらに吐き出すことができたら、
きっと一個一個はとても透き通った綺麗な色をしているんだろうと思った。
それがあまりに美しくて大量だから、ナラザキは耐えられなくなってしまう。
仕方ないよ、人間の飲み込めるものはそんなに多くないのだから。

薄汚い通路に消えていった凪子は、その道が落ち着くんだろうか。どこか、彼女の心が晴れる場所に出られるのだろうか。

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