8 凪子の男(後編)
凪子と、将来の話をしたことがある。大した内容ではない。将来は何処に住みたいとか、どんなふうに生活したいとか、死ぬまでに一回はキャビアが食べてみたいだとか、そういう、他人からすれば本当にどうでもいいことを、俺たちは本気で話し合っていた。
「でも、将来は結婚したいな」俺は呟いた。
「うん。わたしも。いつかは」
「なあ、俺たち、結婚しないか?」
その一言を発した時、俺は胸が裂けそうになった。もちろん、本気で言ったわけじゃない。半分は冗談のつもりだった。でも、その一言は何処かプロポーズめいていたから、俺は変に緊張してしまった。
凪子がクスッと笑う。
「だめだよ」凪子は久々に俺の目を見て言った。「ナラザキナギコになっちゃう」
ナラザキナギコになることの何がいけないのか、俺にはよくわからなかった。けれども、凪子が笑っていたから、俺も笑うことにした。
◯
「凪子」俺は話しかける。
「うん?」
「何か、俺に隠してることないか?」
「ないよ?」
こんなときにも、凪子は俺と目を合わせてくれない。俺はまた寂しくなって、その寂しさが、苛立ちに変わっていった。
「隠し事されると逆に気になるんだよ。隠してることあるんだったら言えよ」
「何も隠してないよ」
「ウソつくな」
「ウソじゃないって」
しばらく間ができた。最悪の間だった。
その時、諦めていればよかったのだけれど、俺はどうしても納得がいかなかった。だから俺は、凪子を尾行することにした。
◯
高校の最寄り駅から、凪子は丸の内方面の電車に乗る。俺は凪子を尾行しながら、嫌な予感を押し殺していた。凪子にバレないように、隣の車両から彼女を観察する。傍から見れば、俺は嫉妬の狼だった。
凪子は丸の内駅に着くと、改札の外のトイレに入った。俺は少し離れた壁にもたれて、その様子を見ていた。何をしているんだろう、という感情がチラチラと見え隠れした。
どれくらい経っただろうか。凪子が出てきた。大学生みたいな服を着て、大学生みたいなメイクをしていた。俺は唖然としてしまう。大学生の姿を纏った凪子は、今まで見たことないくらいに綺麗だったから。俺は動けなくなった。動くことを忘れてしまった。
そのまま、彼女は通路を歩いてゆく。髪をなびかせた凪子が、薄汚い通路に消えていった。
◯
帰りの電車の中で、俺はずっと、揺れるつり革を見ていた。
トイレから出てきた大学生の凪子を、何度も思い返す。あの姿を見た瞬間、俺は尾行を諦めてしまった。そんなことしなくたって結果は明白だと思った。凪子は最初から、俺にはもったいなかった。凪子には凪子の世界があって、その世界には、俺が入ってはいけないのだ。凪子は、ナラザキナギコになっちゃいけない。彼女は、俺の知らないような世界で、俺には想像もつかないようなことをする。俺は、凪子の邪魔をしちゃいけない。
ビー玉を大量に飲み込んだような、嫌な感覚が胸にわだかまっていた。
結局、凪子は、ほとんど俺の目を見てくれなかったな。
俺は凪子を捨てた。いや、凪子が俺を捨てたのだ。
俺は凪子に捨てられた。