9 凪子
ナラザキくんにフラれたその日、わたしは、久しぶりに泣いた。学校の、女子トイレの個室で、声を出さないように気をつけながら、しくしくと泣いていた。わたしはこんなに悲しいのに、溢れ出る涙は暖かくて、それが余計に悲しかった。
◯
どうして男の人と寝るのか、わたしにはよくわからない。でも、社長たちに抱かれている間は、少しだけれど寂しさを紛らわせることができた。わたしは寂しかった。どうしてかはわからない。どうしてか、いつも寂しかった。そういう寂しさは、男の人が消してくれた。みんなわたしに優しく接してくれたし、その優しさに甘えることに、わたしは何の抵抗もなかった。
「大丈夫だよ」
みんな必ず、静かな声でそう呟く。もちろん、なんの根拠もないのだけれど、男の人の、野太く強い声でそう言われると、わたしはなんだか安心する。
その一言が聞きたくて、わたしは、男の人と寝るのだ。
◯
ナラザキくんのことが好きだった。心の底から。本当に好きだった。ナラザキくんは、他の男の人と違っている。「大丈夫だよ」なんて言わないし、「好きだよ」とか、「愛してる」とか、そういう言葉も使わない。でも、わたしの話を、つまらなくてくだらないわたしの話を、楽しそうに聞いてくれた。ただ笑って、わたしを受け入れてくれた。そんなナラザキくんが、たまらなく好きだった。
「なあ、俺たち、結婚しないか?」
ナラザキくんに言われた時、わたしは、なんて言って返したらいいのかわからなかった。ナラザキくんと一生一緒に生きていけたら、どれだけ幸せだろうと思った。ナラザキくんとワンルームに住んでいるところを想像して、わたしはクスッと笑ってしまった。幸せすぎて、現実味がなかった。
「だめだよ」
わたしはナラザキくんの目を見た。彼の目は、野山の湧き水みたいに透き通っていて、その目を見る度、わたしは緊張してしまう。
「ナラザキナギコになっちゃう」
ナラザキナギコになる。そんな幸せを想像して、わたしはまた、クスッと笑った。
◯
わたしは、社長たちと別れることにした。もう寂しさなんてどうでもよかった。この寂しさは、何かで誤魔化したところで、なくなることはないのだから。
社長のラインに、「別れましょう」とだけ打った。それから、社長のアカウントをブロックして、削除した。意外とあっけないものだと思う。
きっと、もう二度と、社長とは会わない。
◯
わたしは幸せを守るのが下手だ。
どれだけ大切にしていても、自分でそれを壊してしまう。
わたしは幸せを守れない。
わたしはダメダメだ。
◯
自分の捨ててきた幸せについて考える。今まで、いろんな幸せを捨ててきた。まだ使えるものもたくさんあった。直せばいくらでも使えたのに、わたしはすぐに捨てた。
わたしはきっと、これからも、いろんな幸せを見つけて、また意味もなくその幸せを捨ててしまうだろう。だからせめて、本当に大切な幸せだけは、何がなんでも守り抜こうと思う。本当に大切にしたい幸せ。そんなものをもし、また見つけることができたなら、全力で守ろうと思う。今のわたしには、幸せを守れるだけの強さがない。守り抜く自信もない。
強くなりたい。
そう切実に願いながら、わたしは今日も、家に帰った。