当番ノート 第52期
貝殻に耳をあてると、海の音がする。 母はそういうことを平気で言う人だった。 友だちと喧嘩をして泣いて帰った日も、図工の時間にじょうずに描けなかった日も、ポートボールで補欠になったときも、母は海で拾ったタカラガイやクモガイをわたしの耳にくっつけた。そうすると周りの音はもやがかかったようになって、さあさあ、とか、ごうごう、とか、プールに潜ったときのようなくぐもった音がする。 貝によって音がちがうの…
当番ノート 第51期
この連載が始まった頃はまだ、陽気のいい日が続いていたと思う。緊急事態宣言が解除されたばかりで、まだまだ不安な日々が続いていた。「今日の感染者は何人なんだろう」「明日はどうなるだろう」まずは目の前にある不安に目がいってしまって、二ヶ月先のことなんか考えられやしなかった。 あれから二ヶ月経ったけれど、状況はあまり変わっていないし、梅雨もまだ明けていない(七月二十九日現在)。自分の生活の些細な部分に目を…
当番ノート 第51期
最後に話すのは、あの子のはなし。 毎朝、8時半には家を出て行くし、夜は早めに帰ってきて、帰ったらシャッターを開ける。洗濯物は大胆に干しているけど、下着が干されているのはみたことがない。 彼氏はそんなに背が高くないけどおしゃれな人で、ちょっと長髪。私が引っ越してきてから何度か見かけているから、誠実に3年は付き合っているんだろう。 部屋で騒いだり、うるさくすることもないけど、たまに小さな話し声や笑い声…
当番ノート 第51期
降り続いた雨の果てに、夏空が見え隠れしています。もうすぐ8月ですね。もがくように生活し、思うようには書き進められなかった2ヶ月間の連載。とうとう最終回です。私の文章はあなたの目にどんな風に映っていましたか? アパートメントで書いてみたいと願ったのは、実は今ではなく、2年前の秋でした。他人と他人とが、ふしぎに共存している空間に、読者としての居心地の良さを覚え、私もここで書いて自分の中のなにかを変えた…
当番ノート 第51期
自分として、いきてゆくこと それが今の自分のテーマなのだと思う。 小さい頃から自信がなかった。 何につけても自分を認めてあげられず、なにをすれば自分で自分を認められるのか分からず、 評価軸を他者に預けて人任せにいきてみたり、 自分じゃない人間をいきてみようとしたりした。 でもそうやって過ごしてみても 結局はっきりとしない、つかみきれない自分が深まっていくだけだった。 そうやってなんとなく雰囲気でい…
当番ノート 第51期
何となく、先週あたりから体調が悪い。周囲に「体調が悪い」と言うと、通常の二倍くらい心配されてしまうので、口にしづらいけれど、体調が悪い。気圧のせいだ。 この連載は配信の一週間前が原稿の締め切りなのだけれど(つまり、この記事の締め切りは七月十七日)、いくら「調子が良くなるまで少し待ってみよう」と様子を見ていても、一向に体調がよくなる気配がなかった。前回の記事は締め切りの三日前くらいに入稿できて余裕綽…
当番ノート 第51期
黒下さんとの出会いは、夜の帰り道だった。 近頃の私の楽しみは、このコラムの第二話に登場する渡辺さんのいるスーパーよりも、少し離れたところにある高級な食材や輸入品が多く並ぶスーパーへ行き、いつもより質のいい食材や変わった野菜、果物を買うこと。 散歩ついでに少し遠回りしながら上機嫌で一直線の道を歩いていると、公園の隣にある凹型にくぼんだゴミ捨て置き場から視線を感じた。 暗い中、目を凝らしながら進むと、…
当番ノート 第51期
姉と二人暮らしをしている家に、妹が遊びに来ました。「彼氏とは2週間前に別れたよ。今日は新しく出会ったサークルの先輩とデートをしてきた」と言うのです。 小学生の頃から部活一筋だった妹は、この1年半、一途な恋愛を楽しんでいました。多感な思春期、部活に打ち込んだ反動か、とにかく勢いが凄まじくすべての行動の意味が彼につながっていました。「意外とあっさり別れたな」と横目に見ながら、自分の18歳の頃を思い出し…
当番ノート 第51期
「ちょっと上がってお茶でもしていかない。」 お寺を散策した帰り、ふらっと立ち寄った陶器屋さんの店主のおばあさんに声をかけられた。 このご時世で観光客は少なく、お客さんは私しかいなかった。 立ち話をしながら、最近私が近くに引っ越してきたばかりだと言うと、それじゃあとおばあさんが誘ってくれたのだった。 店の上がり口のすぐ先が平家の住まいになっていて、やや大きなダイニングテーブルが部屋の真ん中にあり、 …
当番ノート 第51期
初めて客人を部屋に招く時、嬉しい反面、少し緊張もする。 最寄り駅から家までを横並びで歩きながら、「この人は、私の部屋を見てどう思うだろう?」そんな他者評価が気になってそわそわしてしまう。 プライベート空間に招き入れるわけだし、正直、心を許した人しか入れたくない。大人になって、本当に付き合いたい友人が選べるようになった今だから、友人のほとんどが心許せる人物だと思っている。だから、来て欲しくない人はそ…
当番ノート 第51期
このコラムの最初に書いた、山田さんの働くコンビニ。あまりにも頻繁に通っているせいで、山田さん以外にも、いつも出会うあの人のことを覚えてしまっている。 コンビニに行くと、必ずガードレールにもたれかかりスマホをいじっている青年の存在。時間を置いてコンビニの前を通っても、まだそこにいるので、たぶん3時間くらい滞在しているのではないだろうか。 私は、彼をミスターチェンマイと呼んでいる。 小太りではっきりと…
当番ノート 第51期
今日は小さくて特別な話をしてもよいですか?大きな仕事がひとつ終わって、少し違う景色に目を向けたくなったのです。私のお気に入りの生活のシーン、音について。 小田急線最寄駅の踏切の音。私はこの音が好きです。例えば、この先、うんと先。月日が経って、もし別の誰かと別の地で暮らし、今の生活が過去になったら、きっと恋しくなるのはこの音だと思います。からんからんからんからん。きりっとした音とはまるで違う、ぬるい…