“jardin“ 男性名詞.「ジャルダン」と読む.
時代とともにiardinになったりjardinに戻ったりするが、iもjも同じようなものと考えて良いし、13世紀以降、ほぼその姿は変わっていない.
学生の頃から枯山水や生花(せいか)は好きだったけれども、草花生い茂る「庭」に興味を持ったのは、つい最近だ.新型肺炎の影響で外出自粛が続き、マンションの庭を散歩するのが日課になった.
去年の暮れ、引っ越してきた頃は何もない寂しい庭に見えたのに、冬の終わりから春にかけて、ゆっくりゆっくりと芽が出てきて、ぽつぽつと蕾がつき、 4月も半ばにさしかかると、絵の具をたらしたように庭中に色がひらいた.閂が落ちるように、すとんとひとつの季節が終わり、新しいそれが始まる.
人間たちがどんなに心乱し右往左往しているときでも、植物はきちんと、安定したサイクルで生の営みを繋げている.その明瞭な事実に、静かに感謝している.
庭で起きる日々の小さな変化をただ眺める時間は、情報疲れしやすい私の心を穏やかにしてくれる.切り株から生えてきたばかりのしっとりと濡れた新芽、ほろほろと風に揺れる小手鞠、白絨毯のように広がるヒメカズラ、球根を土に植えたままでも育つ古い品種のチューリップ、アボリジニの人々がハーブとして使っていたというメディカルツリー、熟れたバナナのようなねっとりとした薫りを放つカラタネオガタマや、桃色の蕾が開くと真っ白な花を見せるレモン、鳥に食べられてしまうのか最初の半分も残っていないオタマジャクシたち.
泡立つような無数のさえずりを浴びながら、木々の緑が陰を落とす小さなベンチに腰掛ける.見上げる空の総量は心地よく、庭の中心で深呼吸をすると、ふわんと身体がふくらんで、自分と世界の境界が曖昧になる.私がちゃんとしていてもしていなくても、自然の一部でいられることを認識する.
「自然はおのれの日々の営みを、一日たりとも投げうつことをしない。」千年前に中国の詩家が遺した言葉を思い出す.
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「このままCOVID-19が収まらず、お花屋さんまで閉まってしまったらどうしよう」という恐怖から、ついにベランダガーデニングにまで手を出した.ネイティブフラワーのセルリア、ユーカリ、クリスマスローズ.なんとなく白銀っぽいものが多い.
いろんな庭を見ていると、それぞれが本棚のようだと思う.その人の好みや思想、大事にしているものが浮き彫りにされる.
何をどこに植えて、四季を通してどのように愛でるか.重要なのは植物だけではない.土地があれば、水の流れや、盛土の様子、岩や石の配置、垣根の材料、ひとつひとつの取捨選択が、造り手の人となりを反映する.
詩人・小説家 室生犀星の庭づくりへの関心は、文豪仲間のあいだでも有名だった.
芥川龍之介は、犀星がどれほど庭を愛したかを「(持ち家でもない)借家の庭に入らざる数寄を凝らしてゐる」と綴ったが、それに対する返答なのか、犀星本人は「借家の庭を作るといふ気持でなしに、居るあいだは自分のものだといふ心もちであつた。」と書いている.
そんな犀星は、著書「庭をつくる人」の中で、日本庭園におけるつくばいの重要性を説いている.(※)
「水というふものは生きてゐるもので、どういふ庭でも水のないところは息苦しい。庭にはすくなくとも一ところに水がほしい。つくばひ(手洗鉢)の水だけでもよいのである。乾いた庭へ這入ると息詰まりがしてならぬ。わたくしたちが庭にそこばくの水を眺めることは、お茶を飲むと一しよの気持である。」
「主としてつくばひは朝日のかげを早くに映すやうな位置で、決して午後や夕日を受けない方を調法とする。水は朝一度汲みかへ、すれすれに一杯に入れ、石全体を濡らすことは勿論である。その上、青く苔が訪れてゐなければならぬが、一塵を浮べず清くして置かねばならぬ。口嗽ぎ手を浄めるからである。」
水の在り方を慎重に整えることで、庭という空間全体が生き生きとしてくる.つくばいはふさわしい位置に収まることで、その場を浄化し、律するのだ.水には、庭相が表れる.
もし小さな日本庭園を持てるのであれば、自然石のつくばいを置くのが憧れだ.しっとりとした、静かに風格のあるものがいい.すべすべした陶器も美しいけれども、じっくりと苔むした、あるいは穏やかに蔦に包まれた石のつくばいは味わい深そうだ.夜の雨をたっぷりと吸った石は、ひそやかに濡れて朝日を受けるだろう.
犀星も石のつくばいについて「一味通じた底寂しい風韻枯寂の気がながれ合い、ときに陶器に見味うことのできぬところに、わたくしの心を惹き何かを思うさま捜らしてくれるのである。」と言っている.
(※原文では「つくばひ」に傍点、「すれすれ」はくの字点.それ以外は原文ママで表記している.)
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水が生命の源として流れる場所といえば、モスクの庭がある.
自然環境の厳しい中東では古来より、塀や建物で囲まれた、涼しい木陰と水の潤いを享受できる空間が求められてきた.
古代ペルシャ語で”pairidaeza”は王や貴族の所有物、ひいては閉じられた庭園を示した.それがラテン語の”paradisus”となり、フランス語の”paradis”や英語の”paradise”に繋がったようだ.
爽やかな色のタイルで埋め尽くされ、中央に噴水を配したモスクの庭は、いわば安寧の地、楽園 (paradis) の再現だ.
スウェーデン人の友人らと一緒に行ったLa Grande Mosquée de Parisは忘れられない場所のひとつだ.(たまらなく甘いミントティーとお菓子を出すカフェレストランが併設されている)
異国の地のようなその場所は、パリ最大のモスク.具象表現が禁じられているイスラム教の寺院内は、典雅にして精緻な幾何学模様で埋め尽くされている.模様の細やかさと、その果てしない繰り返しに、人々の祈りを感じる.
建物の壁に囲まれた中庭は、端正なシンメトリー構成で、それは整形式庭園と呼ばれるヨーロッパの庭園様式の基本となる形だ.とは言え、配置こそは左右対称できっちりしているものの、モスクの植物たちはとても自由だ.
例えばヴェルサイユ宮殿の庭は、自然に対する人間の優位性を強調するような木々の配置で、ちょっとした息苦しさを感じるときがある.しかしモスクの木々はもっと存分に呼吸しているように見える.深くみずみずしい息遣いが聞こえてくるような、生命そのものに浸っているような感覚を覚えるのだ.水と緑への憧れが、こうしたしっとりとした中東庭園を発達させたのだろう.
そばにあるアラブ世界研究所は、フランスの建築家 Jean Nouvelの代表作のひとつで、壁が細密画モチーフのガラス張りになっており、光や透明感、外界との繋がりが大事にされている.太陽の光に応じて開閉する窓など、建物の内側にいながら、外にいるような錯覚を覚える、構造の反転を起こす装置がいたるところに施されている.
庭に守られつつも解放されたいというのは、人間の相反する欲望の表れなのかもしれない.
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庭というよりも森の話だけれども、フランスの文化系ラジオ放送局 France Cultureで聴いた庭師の話は興味深かった.
“La timidité des arbres”(木々の恥じらい)について.
英語だと”crown shyness”というらしいそれは、空を覆う樹木の枝葉がお互い接触しないよう、30cm程度の隙間を開けて育つという現象だ.一部の熱帯地域の、高さ50mほどの樹木に見られるのだとか.
上空から撮影した映像では、葉っぱ同士が空間を譲り合って、どうぞどうぞ、とささやいているように見える.お互いが生きのびるために必要な孤独が、適切に守られている感じ.
動画:https://vimeo.com/328002264
長く共生していく上で、適度な距離を保ち続けるということは、人間関係にも当てはまりそう.今の時期だと、心理的/物理的な距離の両方を考えざるを得ない.
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最近、「他者」や「外から来たもの」との距離の在り方を考えている時に、高山明さんが企画している「ヘテロトピアプロジェクト」を知った.芸術公社主宰「ウィルス共生時代を生き抜く、芸術の想像力とは」というトーク内で、ご本人が紹介されていた話だ.
高山明さんは世界を股にかける演出家・アーティスト.あいちトリエンナーレ2019のパフォーマンス&作品を観て、私は「(現実世界まで)拡張する演劇」というものを知った.
いま構想中の「ヘテロピアプロジェクト」は、自粛や自宅待機、ソーシャルディスタンス徹底の末、どんどん閉ざされていくコミュニティを、ふたたび開いていこうとするものだ.
舞台はNY.人々に「ヘテロトピアガーデン」と呼ばれる小さな庭を、家の中で作ってもらう.小さくてもいい.植物や虫などの新しい要素を加えていき、そこで生まれる新たな有機的世界を見つめる.ひとつひとつの要素が、家の外から来たものだということを意識しながら.(詳細は分からないのだが、きちんとした情報は今月11日に発表される予定.)
外から来るものたちは、それぞれの時間を持っている.たくさんの人に触れられたり、誰かの思い出が濃厚に刻まれていたりして.そうした多様な時間を持つものたちを、「ガーデン」というひとつのプラットフォームに集めて、新たな物語を作り、誰かとシェアしていく.自分が世界の循環の一部であることを思い出すようなプロジェクトだ.
今まで見ていた世界が大きく変容しつつある今、守りと関わりのバランスや、人々と繋がるための新たな回路を模索していきたい.