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Native Language part10

Native Language

北 学

北 学

サキソフォニスト、作曲家

大阪生まれ。幼少期をシンガポールで過ごし、帰国後15歳までチェロを学ぶ。96年彫刻を学ぶため渡仏。97年、サックスと出会い独学で習得。以後、ジャズを初め、即興やダンス・映像等様々なプロジェクトに参加。主なものに、ダンス作品「夜弓」やスズキケンタロー氏との「Otoms」、永井朋生氏との「Kynas」、Toninho do carmo氏とのブラジル音楽等々。また、Pierre&Mattieu Carniaux兄弟監督の「Last room」等、映像作品にも精力的に参加。物作りで培った視覚的・触覚的質感を元に、音で絵を描くことに重きを置いている。

Reviewed by
朝弘 佳央理

この曲は私の舞台作品のひとつのシーンのために北さんが作ってくれた曲です。
下手(客席から見て左側)奥から上手手前に向かってもうその動きがわからないほどじっくりとひとりのダンサーが地を這い、上手手前からは激しい動きの影が時間を逆行してゆく。
なにか、永遠と続いているいとなみの一部分を切り取ってフォーカスを当てたみたいなシーンにしたかった。

舞台作品を作る時に、いつも音に困る。
そもそも私は耳が神経質なのか、おおよその音楽を心地よく耳に入れることができないし、ほんとうに良いと感じる音楽が滅多にない。ほんとうに良いと思わない音楽を使うくらいなら自分で気に入った音を録音してそれで踊ったほうがいい、と、音楽にはいつも悩まされるのです。
今回もそんなふうに音楽に関して後手後手になっていたのだけれど本番の2週間前に思い切って北さんにお願いをしてみた。
ダンサーの動きと全体のシーンをビデオで見てくれた北さんは、その日のうちにこの音楽の大筋を組み立ててくれた。
結果、この楽曲はみごとにシーンを引っ張り、作品全体も楔を打たれたように締まり、コントラストがはっきりしたのでした。

ダンスの見方が分からない、という言葉をよく聞きます。
私もかつてはそうだったからその気持は想像できる。
けれどある時にある作品を見て、あ、もしかしたらダンスというのは私が知っているものとはまた別の受け取り方ができるんじゃないか、ということに気づいたのです。
私は小説を読むのが好きだし、舞台のキャリアも芝居から始まっている。だから(だから、なのかは分からないけれど)何かそこに筋だとか起承転結、オチや納得、道すじや理解のやり場のようなことを求めて見てしまっていた。
けれど、ダンスの舞台はもっと、同じ空間に同じ肉体を持った存在が、同じ時間のなかでなにごとかをしている、そのなにごとかをただ同時に共有してみて、目の前の事象と自分の中に起こる事象を同時に味わってみる、ような時間なんじゃないか、という風にその時に初めて発見したのです。
もちろんこれは私なりの発見であって、ダンスの見方などひとそれぞれ、どんあ舞台かによっても異なると思います。
けれどこれ以降、私はいわゆる「難解である」といわれる映画や美術作品を見ても「よく分からないなあ」というふうには自分の心を弾かないで済むようになりました。
世界を見るやり方が、ひとつ増えたのだろうと思います。

北さんの音楽を聴いた時に、あ、もしかしてこの音楽はダンスの舞台のように味わえば良いんだな。ということを思いました。
鼓膜に響く感触、心臓を圧迫する重力、時間が伸び縮みするかんじ、脳のどこかに浮かんでくる絵、この音の行き先を神経を張り詰めて見届けつつ、もう半分はからっぽのチューブのように素通りさせておけばいい。

ダンサーとしては、こんなにインスピレーションを受ける音はない、というふうに感じます。
もしかしたらもともと北さんが彫刻家だからなのか、立体的で、空気に細かく食い込むような感触があるので。
私はそれを受けて、見たい景色をみたり、食い込まれた感触をこんどは自分の動きにしてゆけばいい。

録音は全てお家のなかにあるもの(サキソフォン、チェロ、蚤の市で見つけた鐘や貝殻、バケツや工事道具、水やじょうろやプラスチックのパイプ、ピクニックシートなど)を使って行ったそうです。

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