書くことと音楽について

第23期(2015年10月-11月)

身体について、なんて大風呂敷を広げたけれど、やはり僕に書けるものといえば日常生活とその周縁のことでしかない。でも確実に言えることは、身体は謎に満ちているし、多義的で魅力的だし、センシティブで取扱い注意ってことだ。

たとえば緊張することは自分で制御できるものではないし、恐怖や孤独といった問題は、精神の問題というよりも、身体の問題であるように思う。病気になることだって身体のわけのわからなさの一例だ。差別はしばしば身体的な特徴によってなされてきたし、身体の話題は日常ではタブー視されがちだ。あらかじめ与えられた謎として引き受けて、なんとか上手くやっていく他ない存在としての身体。でも、およそ考えられうる範囲において、身体を介さない問題というものは存在しないといっていいと思う。あらゆる物事を、身体に引きつけて考え直すことができる。最近話題となったデモでも、あれは身体がないと成り立たない。生身の人間の身体はそれが存在するというだけで、政治的な主張にもなれば、憎しみの対象にもなれば、夢想さらには恋慕の対象にもなる。あるいは熊にもなれれば、カエルや鳥にだってなれる。

 たとえば、書くことについて。

 しばしば文体というものは身体的なことがら、呼吸のようなものだと言われる。ふうん、そういうものか、とよくわからないなりに「そうかも」と思っていたけれど、最近では文体というものが身体に属するものだということがますます実感として深まっている。というのも、書くということについてひどく悩むようになったからである。以前にはすらすらと書けていたような日記についてもほとんど書けなく(書かなく)なってしまったし、自分の書いた文章を見て、それをいろいろと書き直したりしていると、まるで自分の身体に力を加えて変形させているように思うことが増えたのだ。無理なダイエットをしたり、筋トレをしているような感覚である。コルセットをはめたり纏足をしたことはないけれど、自分の中にある”(理想の)身体像”みたいな鋳型に言葉を流し込んでいるような感覚がある。しっくりきている時には心地よいけれど、最近は常に新しい鋳型を探し求めて彷徨っている気がする。新しい呼吸の仕方を探してる、なんていうと「お前は魚にでもなるのか」とツッコミが入りそうだが、まさにそんな感じである。

 ところで僕はオーケストラで楽器を弾いているけれど、初めて演奏会を見にきてくれたりする友人には、よく「なぜあれだけの人間で音が揃うのか不思議だ」と言われる。オーケストラも100人前後の人間が同時に身体を動かすものなのだから、そこだけ切り取ると身体(視覚)芸術、舞踊だと言えなくもない。というよりも、音楽を視覚や身体を抜きに考えること自体が不可能なのではないかとさえ思う。ボリュームをゼロにした演奏録画を見ると指揮者だけが白い棒をもって集団を操る呪術的な戯画のようにも見える。音が揃っているというのは、物質的には身体の動きが揃っているということであるし、それはつまり呼吸の仕方が揃っているということなのだ(全体主義国家のマスゲームは、リズムや呼吸が一様でまったく変化がない)。弦楽器奏者はみな一様に弓を揃えて弾くし、弓のスピードはしばしば呼吸をなぞらえる。その身体のうねりの合間に打楽器がハンマーを打ち下ろしたりすると、音以上に視覚的にも衝撃がある。

 呼吸が揃うというのはリズムの問題だけれど、そういえば明治初期の人たちは、僕たちが運動会でしたような行進ができなかったらしい。みなで一緒に手足を動かして、同じ歩幅で、同じ高さに足を上げて前に進むということが、そして行進するときの「イチ、ニー、サンッ、シー」というリズムがうまくとれなかったという。当時の人たちには、均等に刻まれる時間に合わせて身体を動かすという技術がなかった。そういう感覚そのものが身体の中に備わってなかったのだ。少し自分のことを書くと、僕もオーケストラの中に一番最初に入って弾いたとき、同じような感覚を覚えた。あれは衝撃的だったから今でもよく覚えている。確かワーグナーのマイスタージンガーで、ちゃんと自分では練習をしていたんだけれども、人と合わせるとなるとどうやって合わせればいいのか、そのチャンネルが自分の中にまったく備わっていなかった。自分が弾くことにを考えると隣の人と合わせるということが意識から抜けて合わなくなるし、隣の人を意識しすぎると自分が出す音がおろそかになる。自分一人では弾けるのになぜ人と合わないのか、とその日の夜は軽いカルチャーショックで知恵熱が出そうだったことを覚えている。今ではまったく自然なこととして考えなくなってしまったけれど、人と一緒に音を出して合わせるというのは、視覚と聴覚が自分の身体とリンクしていて初めて成せる技術で、それは訓練によって習得するものなのだ(僕のそれは衰える一方だが…)。人間にとってリズムというのはまったく自明なものではないのだ。

 そして、なんとも不思議なことであるが、そのように訓練された身体が奏でる音楽が”自然に”聞こえるのだ。音楽だけではあるまい。舞踊も、メディアに露出するモデルも、僕らが自然だ(かつ美しい)と思って鑑賞する作品のほとんどが、訓練と努力によって作り上げられている。音楽では、自らの身体のみならず聴き手の身体(五感の錯覚)も考慮される。たとえば交響曲において。繰り返し記号によって二度演奏される箇所がある場合、人間は二度目に聞くときには冗長に感じる。だから一度目よりも若干テンポを上げることで、聴き手にとっては「自然に」聴こえる。全体の音量が小さくなった箇所というのは、大音量の箇所よりも音量が小さい(音が薄い)というだけでテンポが緩んで聞こえる。だから音の薄い箇所は若干テンポを上げることで、聴き手にとっては「自然に」聴こえる、等々。僕は指揮者ではないけれど、指揮者という生き物はそういうことを考えてリハーサルをしている。あるテンポに慣れ親しんでいる状態があるからこそ、緩急は意味をもつのであるし、テンポやリズムが人間にとって笑いや驚きを呼び起こすファクターだと考えると、コメディアンがどのように創作を行っているのかということにも興味が湧くのだ。

僕はシャコンヌが好きで、最近はこういう動画ばかり見ている。