昨日と今日が同じであることとか

第23期(2015年10月-11月)

認知症の人とお喋りをした。
認知症の人と喋るのは初めてだったと思う。
とても興味深かった。

「あなた若いわね、歳いくつ?」
「28です」
「まあ!(口元に手をやる)」
「昭和何年?私、2年」
「62年です」
「昭和って何年までだっけ。それがわかればあなたの歳がわかるわよ」
「昭和は64年までですね。64年は7日しかないですけど」
「(よくわからないという顔)」
「いまは平成27年なので、足すと28です」
「あら、若いわね、彼女いるの?」
「いないですよ」
「そうなの?女の子困らせちゃだめよ」
「困らせないですよ」
「若いから、もう!(ボディータッチ)」
「えへへ」
「あなたいくつ?」
「28です」
「まあ!(口元に手をやる)」
「昭和何年?私、2年」

(以下、繰り返し)

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僕たちは昨日と今日が連続しているということを知っている。
これは信仰のようなものだ。
眠って目が覚めれば明日になる。そう信じている。
昨日の自分と今日の自分は同じ人間だ。そう信じている。
とりあえずのところ、そう信じていて問題はなさそうだ、という理由で。
昨日の自分と今日の自分が同じ人間である、というのは、自明なことだろうか。

意識を獲得したとき、人間は世界から切り離された。
それはとてつもない恐怖であったかもしれない。
絶望のようなものかもしれない。
いずれにせよ、人間は世界を失った。
でも、人は何かにつかまっていないと生きていけない。
信仰とか、価値とか、母とか。
そのとき人間は信仰と一緒に時間にしがみついたのだ、きっと。
そして記憶というシステムを発明した。
記憶があれば、時間に常につかまっていなくてもいい。参照するだけでいい。
かくして、人間は、世界から分離した意識と、他者としての自己を獲得した。

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フォーサイスにArtifactという作品がある。
端的に言って、僕はこの作品がとても好きだ。
使われているバッハのシャコンヌ自体が、ひとつの命題のような曲だ。
音楽としてこれほど「この音楽はまるまるだ」と言うことが難しい楽曲も珍しい。
いかようにも想像力を働かせることのできる、まっさらな塗り絵のようだ。

「そういえば、世界には昼と夜がありましたよね。なぜですかね?」
「そういえば、物事には中心というものがありますよね。なぜですかね?」
「そういえば、人間は感情をもっていますよね?感情ってこういうものですかね?」
「そういえば、人間は笑ったりしましたよね?笑うというのは、こういうものですかね?」
「そういえば、人間は愛を交わすことができましたね。愛を交わすってどういうことでしたかね?」
「そういえば、人間は驚くこともできましたね。驚きってどういうものでしたかね?」
「そういえば、人間は陶酔することもできましたね。」
「そういえば、人間は悼むこともできましたね。」

恐ろしいことだが、世界はいかようにも解釈することができる。
振付というのは、思考と感情とを、一度分離してリプログラムするようなものだ。
だからこそ、ルールが必要だ。
物語と言い換えてもいい。

舞踊が、人間が物語るものの最古の形式であると言われる意味がようやくわかったような気がした。