このアパートメントの連載を開始してもうすぐ2ヶ月になる。
お話を頂いた時はとても長い期間に感じたが、振り返ってみるととても短く感じる。
一瞬という表現をしてもいいくらいだ。
飛躍した話をしてみよう。
私は33年生きているが、振り返ってみるとやはりこれまでの生も一瞬だったように思う。
いや、いろいろ思い出すと一瞬ではないことは理解できる。
小学校の時の放課後の時間は永遠にあるかのように長かったし、
高校のとき、退屈にウオークマンを聞きながら帰る電車の時間鉛のようなものだった。
大学のとき、夜行バスで東京から京都に帰る時の寝付けない車内も時間が止まったようだった。
どの例も微妙だが、とりあえず何かをして、何かをしなかったりして長い時間をかけて今の私がいる。
それなのに、ふっと振り返ったときの感覚は33年の時間を一瞬にしか感じさせない。
当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれないが、
改めて考えるとこわいなと思った。
たぶんこわいと思うのはもったいない精神からそう感じるのだろうか。
長いはずのものが実は短いどころかほんの刹那のものだったことに我慢できないのだ。
でも我慢できなくてもそんなものなのだ。
そんな振り返ったら一瞬の生を、全力で生きて行かないと行けないのが人間なのだろう。
私が死んで100年後の、例えば2150年に私という存在はどこにもないのは確実だが、
それでも生きて行くのだろう。
そして私は何十年か先に死ぬ時も同じようにこれまでの生を振り返って一瞬を感じて息を止めるのだと思う。
息を止めてから、どうなるのかと考えたとき。
私が死んだら写真が残ることを今更ながら思い出した。
祖父の写真が祖父の死の後も残ったのと同様に。
私の写真も私の肉体が消えた後も生き続けるのだろう
私は祖父の写真を見ていて、祖父の生を想像すると祖父の生はとても一瞬ではない。
祖母との金比羅山での新婚旅行も、戦時中の経験も、原爆も。戦後の生活も全然一瞬ではない。
どれも長い時の中で祖父が生きてきたことが分る。
でもたぶん祖父自身は私と同じように自分の生を振り返ったら一瞬のものだったと思うのだろう。
他者が記憶に触れた時に、やっとその人の生は一瞬から解放されるのかもしれない。
そう思えた。
さて、2150年頃にわたしの写真をみて想像する人はいるのか、
いたとしたら何を考えてくれるのか、ちょっと楽しみになってきた。
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澄毅です。
2ヶ月にわたって有り難うございました。
いつかまたどこかで