今回は作品づくりについて書きたいと思う。
※ このあたりの部分は作家それぞれが設定しているところなので、
あくまで私の認識というのを留意して頂ければ幸いです。
光を透す作品は、写真自体に穴をあけ、それをさらに太陽などの光源に向けて再撮影する方法で作成している。
なので、作成方法自体はとてもシンプルでアナログな方法だ。
私は作品作成方法はなるべくシンプルにしたいと考えている。それは、「作品」は実体として観る人の前に現れているものと同時に、そこに込めたコンセプト、そのコンセプトを実現する為に使用した作成方法自体もまた作品の一部だと認識しているからだ。作成方法が複雑になるとそのコンセプトが濁りそうな感覚がある。手間はいくらでも掛かっていいのだが、このコンセプトを濁らせないで手間の量を増やすのが難しい。一番怖いのは手間が増えたことで作品の質が上がったと「錯覚」することだ。
手間はあくまで手間。重要なコンセプトを実現させるために途方もない手間かけた作品に感動する一方で、残酷だが作品に対して手間がかみ合ってなく、徒労と感じられる作品に出会う時もある。作家自身についても10年間やり続けた人のものより、さっき筆を取った人が描いた線の方が魅力的なことがある可能性がある。新規参入が容易な写真ではそれが如実だ。その不条理が表現には顕著にあるから面白いし、続けていく者にとっては緊張感を保つ理由の一つになる。
私はフォトショップなどで合成するのではなく、写真に穴をあけ、光を透して再撮影するというアナログな方法を用いている。それはそこに私の想像を超えた「予想外」があるからだ。電球の光も面白いが、太陽の光が一番おもしろい。太陽光は時期や場所、気候によって全く異なる「生もの」だ。東京に比べてパリは光がより強いように感じる。緯度が高いことや湿度が低いことなどが影響しているのではと思うが、撮る人間の心までもが反映されそうな感覚がある。
光に撮る人の心まで反映されているように感じたのはワークショップでの経験も大きい。これまで宝塚や東京、パリでこうした手段を体験してもらうワークショップを行ってきた。上記だけ聞けば自分だけで出来そうだが、実際にはカメラの設定や角度、レンズの選択など、私が蓄積した「蘊蓄」があると便利だ。ワークショップではそうした「蘊蓄」を共有してもらって、それぞれ持ち寄ってきてもらった写真に光を透す経験をしてもらっている。家族の写真、風景、自分自身の作品…光を透す写真の選択が違うのはもちろん、光の形も異なる。撮る人それぞれの心やある意味生きてきたものが光に反映されているようで、私自身とても楽しく考えさせられる経験をしている。また近いうちにどこかで開催したい。
最後に。
自分自身が変わって行くように、同じ私が撮っていてもその時の心の持ちようや、瞳に写る世界で作品は変わって行く。それは細部の時もあれば、全体を明るく撮るのか暗く撮るのかという作品自体の印象を変える部分も含めてだ。
人の心が変わって行くように、それを鏡とする作品が変わって行くことは当然のことだ。そして変わることで良い作品が出来ることがあれば、変わる前こそが最高の状況だったということもあるのだろう。つまりいつが作家にとって最高の時なのかは分らない。しかしだからこそこの瞬間瞬間に最高と思えるものをつくっておかないと振り返った時に後悔するなということだけは確実に言える。
作家にとって「いつか」はなく、「いま」つくるかどうかなのだ。