写真が好きだ。
私が世界と繋がる橋を架けてくれたからだ。
私は写真に私は穴をあけ、光を透すことで作品を制作している。
光の空白は、空白だが無ではない。
空白は観る人それぞれの心に繋がっていってほしい。
思い、過去、託したかったこと、葬りたいこと、願望、悲哀、歓び。。
その空白の中にいくつもの物語を込めてほしい。
私がこのように考えだしたのはきっかけがある。
私が小学校の時に亡くなった祖父の存在。
大学のとき彼の古いアルバムを発見した時だ。
四隅には金の留め具がついている。
丁寧な祖父らしく、写真1枚1枚を丁寧に貼っていた。
いろいろな写真がある。子供の時だと思われる祖父のポートレイト、集合写真、
食事中の写真、体操服のような服を着ている人との写真もある。
その写真に写る一人一人が祖父の大切な人だったのだろうというのが伝わる。
その人がいなければ運命はまた違う方向に流れ、私は生まれなかったかもしれない。
しかし、そんな彼らが、どういう人だったのか私は知らない。
名前、祖父との関係、彼への思い、どのように生きたのか、何一つ分らない。
ただ、この世に存在し、祖父と繋がっていたことしか分らない。
悲しいと思う感情の一方で、
それが人間なのかもしれないという思いが強くなる。
生きて、生きて、生きて、そして死んでいく。
それがあったことだけを影のように残すのが写真なのだろう。
父も母もそのようにしていつかこの世から卒業し、
私や妻もいつかはそうなるのだろう
その絶対的な距離は受け入れなければならない。
一方で、そのどうしようもない距離を、
ぐっと手もとに引き寄せたいという思いが生まれた。
それがこの光の空白をつくりたいと思った動機だ。
自分の願望や気持ちを投影する場所として、光の空白が存在してくれたらと思う。
投影するものは人それぞれだろう。具体的であっても抽象的で気であってもいい。
ただ、みる人それぞれにとって、過ぎ去っていってしまう人の存在に、
現時点から入っていける場所になってくれたらと思う。
人は私とは違う、価値観もみている世界も違う。
ただ人は存在する。私が生きている今でも、生まれる前も、きっと死んだ先も。
私はそんな「他者」と繋がりたい。
そう思うとき、この表現方法はしっくりきているように感じる。
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澄毅(スミ タケシ)ともうします。
1981年京都と大阪の府境に生まれ、東京に12年間住んだあと、昨年よりパリに住んでいます。
主に写真を媒体に作品をつくっています。
時々線も描いています。
「知識」や「情報」をいう鱗をとった、自分の芯を私は主に写真を用いて伝えようとしていますが、
そうしたことが自分の文章でもできるのか。そこを確かめたいと思います。