「生き物」が「食べ物」になる瞬間はいつだろう。
私が狩猟を始めたのは、そんな疑問に答えを見つけるためだったのかもしれない。
当時の私にとって、狩猟は「生き物」が「食べ物」になる過程を追うことができる、唯一無二の手段だった。
自然に生きる野生動物を目の当たりにして、どんな行程を踏めば「生き物」を「食べ物」に変換できるのか興味を持った。
フライドチキンなら食べ物なのか、鶏モモ肉という商品シールが貼られていれば食べ物なのか、丸鶏は、鶏小屋にいる鶏は、生き物なのだろうか。
私は、狩猟という経験を通して「生き物」から「食べ物」を連想するようになった。
それは「食べ物」として美味しく頂くためには「生き物」である段階から、食べることを見越した丁寧な扱いが必要だと学んだからだ。
次に、私はどんな「生き物」を「食べ物」とみなすのかに興味を持った。
ウサギやシカ、ウマなど、愛玩対象としてなじみ深い動物を「食べ物」と認識するには、どんな行程や経験が必要なのだろう。
狩猟は、動物の生と死の境目を見届け、皮を剥ぎ、骨を外し、解体することで、可愛かった生き物が、肉になる行程を、確認することができる。
さらに「食べたら美味しかった」という経験は、愛玩対象だった動物たちに新たな価値を与えるのだ。
「生き物」を「食べ物」に変えることができるのは、私たちが日々の食事を積み重ねて築いた食文化だけなのかもしれない。